「沖縄戦」控訴審始まる(4)

 瑞慶山茂弁護団長は、那覇地方裁判所の判決について、「戦争当時には国家賠償法が制定されておらず、戦争被害救済の実定法が存在しなかった」ことを棄却理由としているが、残虐非道を行った日本軍の行為には、国家無答責論を適用することは許されないと批判する。「一審裁判所は、原告らの主張する加害行為と被害事実について、重要な点・基本的な点において認定が欠落しています。すなわち、原審裁判所は、日本軍の残虐非道行為や深刻な沖縄戦被害の実態を正確に認定することなく、法律論で請求を棄却しているのです。一審判決がまず結論ありき、予断をもった請求棄却の判決であると批判されているゆえんです」
 瑞慶山団長は、この点をさらに突っ込んで究明。「基本的事実認定に関する最大の不当性は、地上戦中心の沖縄戦と本土の空襲による攻撃との基本的な相違点(沖縄戦の特異性)について判断を回避し、事実認定を行っていない」と分析する。
 地上戦中心の沖縄戦被害と本土の各空襲被害との相違点はどこにあるのだろうか。
 沖縄戦は日本軍が全島を要塞化したうえで、3カ月にわたる地上戦闘行為が、一般住民居住地などで一般住民を巻き込んで行われたことのみならず、日本軍が一般住民に「集団自 決」を強いたこと、住民を保護すべき立場にあった日本軍により住民虐殺が行われ、壕追い出しや食糧強奪などによる残虐非道な積極的な加害行為などが特徴としてあげられる。

 瑞慶山団長は、次のように整理している。
(1)沖縄戦は、被告国の最高戦争指導機関の大本営の決定と政府の閣議決定が、第2次 大 戦中の唯―の国内戦で、本土防衛の砦 (捨て石)として計画制定(実行)したものであり、住民居住地を中心に海と空からの集中攻撃が約90日の長期に及ぶ激戦が狭い島で続けられ、老幼男女の別なくその戦闘の犠牲になったもので、他の都道府県の空襲による戦災とは、その内容が全く違うものである。一般住民の死者15万人、身体的負傷者・精神障害者を合わせて約5万人と甚大であった。
(2)沖縄戦当時は、制空権、制海権も敵の手中に堕ち、陸上も敵の中にあって全く身動 き出来ない状況下であつたため、島外への離脱はいかなる方法を講じても不可能で戦 闘員、非戦闘員たる一般住民の別なく銃弾に倒れた。
(3)島 嶼であるが故にアメリカ軍54万人の軍隊と敵艦船1300有余隻に二重二重に 包囲され、いかに努力しても戦場から離脱できず、鉄の暴風ともいわれた1800万 発を超える艦砲射撃を雨の如く浴びせられて、あらゆるものを破壊し、焼失させた。
(4)幼老女子以外の17歳以上45歳までの壮年の県外疎開が軍命により禁止された。 県民は日本軍と米軍により、「袋のネズミ」となった。この狭い袋の中で、日米軍の 戦闘行為が実行され、沖縄県民は大量に戦死していくのであった。
(5)敵上陸後、年齢、性別を問わず、また、時間、場所を選ばずに軍部隊や軍人の個々 の要請に基づき強制的に戦闘に参加させられた。
⑹日本軍は敗戦の様相が濃厚となり、正確な情報を確認することもなく敗戦直前・直 後の混乱期に、推定1000名 以上の「強制集団自決」を発生させ、推定1000名を超える無実の県民をスパイ容疑で殺害した。
(7)壕内で乳幼児の泣き声のため味方の陣地が米軍に察知されることを危ぐして多くの者が殺された。
(8)食糧の補給が絶たれ軍民ともに極度に食糧が不足し、軍隊の食糧確保のため強制的に食糧の供出をさせられ、また、隊を外れた軍人によって食糧強奪も相次いだ。
(9)特に激戦地の伊江島沖縄本島の中、南部地区では戦に追い込められた軍人と民間 人がひしめきあい、日本軍によって力の弱い民間人が壕を奪われ、追い出され、多数の者が銃弾の犠牲になった。
(10)世界戦史上も未曾有の激戦で県民の28%に上る多数の者が死亡し、民間人の死者 が日米軍の死者の合計を上回った世界戦史上も例をみない被害である。
(11)以上のように多数の死亡者、負傷者が続出したが、医療機関も皆無の状況で手当の施しようもなく、言語に絶する悲惨なものであった。
(12)本土防衛に備えて沖縄の部隊配備は南方の各地域からも投入されたため、マラリア その他の伝染病の悪疫が流行し多数の犠牲者がでた。
(13)沖縄戦の戦時・戦場体験に起因するPTSDなど外傷性精神障害が多発し、その実数 は未調査の故に把握できていないが、相当数にのぼると推定されており、現在なお発症し続けている。