「沖縄戦」控訴審始まる(2)

 沖縄戦で父・母・兄弟姉妹5人を亡くし1人だけの孤児になった金城さんの話は続く。
 陸軍病院を出た後、さらに南へ。東風平あたりで母と二番目の姉、妹、弟が民家に入ったとき、爆弾が落ちた。金城さんと一番上の姉、叔父さん、叔母さんは近くの豚小屋に飛び込む。豚小屋も爆弾でやられ、姉は肩を、金城さんは頭を大けがした。母たちの様子を確認する間もなく、逃げた。叔父は、けがで歩けなくなった叔母を近くの穴に入れ、また来るからと声をかけた。叔母は弱弱しい声で「みじぐぅわーぬまちとぅらせー」(お水を飲ませて頂戴)と言っていましたが、振り切るようにしてそこを後にした。
 爆弾の降る中、たくさんの死体をさけながら、さらに南に逃げた金城さん。声を詰まらせながら亡くなった家族、無念のうちに亡くなっていったうちなーんちゅの声を裁判長に伝えようと懸命にことばを絞り出しながら訴え続けた。
 喜屋武のガマで捕虜になり、宜野座野戦病院へ。その後、沖縄市の孤児院に。親戚に預けられ、小学校に行かず農業の手伝いをする日々。寂しくて死のうと海に行った金城さん。親戚の人たちが探しに来てくれて、死ななくてよかったと思ったという。
 金城さんは、最後に、日常生活の中で精神的に不安定になったり、体の痛みが続き、日常生活に支障をきたすことがあるが、精神科の診断を受けたところ、沖縄戦が原因で精神的な傷があるということだったと語った。

 この金城さんの証言のなかではっきり浮かび上がるのが、沖縄戦が地上戦であったがために、ここまで悲惨な、「楽しい生活は一変し、地獄へと変わっていった」ということである。日本兵に壕を追い出され、弾雨の中、生死をさまよったこと―は、日本軍の不法行為による被害であり、「戦争だから」といういいわけでは済まされない問題である。また、PTSDに今も苦しんでいることを訴えている。いや、精神的な傷が長い間治癒されないままきて、深刻にあらわれているのかもしれない。ともかく、金城さんは、戦時・戦場体験による精神被害が今日まで継続し、苦しんでいるのである。
 第一回の弁論で、弁護団長の弁論をさしおいても、裁判長に聞かせたかったのが、金城さんの被害の証言、なかでもこの2点についてだろう。この控訴審が何を問うべきなのか。裁判所は、この金城さんの被害に正面から向かい合い、救済の道を切り開くべきではないか。