瀬長亀次郎の沖縄違憲訴訟 人民党機関紙から(1)

 瀬長亀次郎さんは、アメリカという異民族支配の時代、日本国憲法が適用されなかった時代に、本土へ渡るときの証明書=パスポートを米側が許可しないのは日本国憲法に抵触するとして沖縄違憲訴訟を起こしました。厳密には、人権協会が提訴を決め、瀬長さんも原告に加わることに同意したということでしょうが、ともかく、この裁判で東京の法廷に瀬長さんが立つことを米側も認めないわけにはいかなくなり、パスポートの発行に同意。実に、11年にわたるたたかいをへての勝利です。

 瀬長さんは、1967年10月20日に上京。違憲訴訟の第13回法廷に立つとともに、この機会に約40日間、北海道から鹿児島県奄美大島まで駆け巡り、沖縄・小笠原の即時返還を訴えました。

 瀬長さんは、このときのことを「十二年ぶりの本土」と題して、沖縄人民党機関紙「人民」に掲載しました。かなりの長文ですが、全文紹介します。


 公判廷での原告陳述要旨
 限られた時間で22年にわたるアメリカ帝国主義の沖縄支配の実体、違憲訴訟の目的や政治的意義などについて十分に述べることはできないと思うので、陳述の内容を第一に、違憲訴訟提起の経過、第二に、アメリカ帝国主義の沖縄支配の実態、第三に、沖縄県民のたたかいと統一要求、むすびの順で整理して述べることにする。

1、違憲訴訟にいたるまでの経過
 私の本土渡航申請は、いままで16回拒否され、17回目にやっと許可された。那覇の日本政府南方連絡事務所(南連)から交付されたこの白表紙の「身分証明書」なるものをもって、私は、きょう12時すぎ羽田空港に着いた。「身分証明書」の内容は二つからなっている。その一つは内閣総理大臣の権限―「日本人瀬長亀次郎は違憲訴訟原告として公判出廷のため本邦へ渡航するものであることを証明する」というもの。そのことは、沖縄の最高軍事権力者、高等弁務官代理「琉球米国民政府」公安部長アンダーソン署名の「瀬長亀次郎の出域を許可する」というものである。そして羽田空港で入国検査官署名の「日本国への帰国を証明する」のゴム印が押されている。
 私がはじめに「身分証明書」の内容をくわしく説明する理由は、そのなかにアメリカ帝国主義による沖縄支配の本質と日本政府の、それへの家来としての協力加担の実態が具体的に示されているからである。
 いままで本土渡航は極度に制限され、旅券発給の権限も日本政府になかったが、沖縄県民のために旅券法が改正されて、その事務を南連でとれるようになり、本土、沖縄間往来の自由は大幅に保障されたと日本政府は大宣伝している。これが真っ赤なウソであることは、いまあげた「身分証明書」が明らかにしている。すなわち、日本政府は、本土に渡ることを証明するだけであり、許可権は相変わらず沖縄の高等弁務官がにぎっている。しかし日本政府は、アメリカの発行する旅券の事務を、日本国民の血税によって行っており、手続きも「琉球政府」の出入域管理庁を通じてでないと行えないようになって全く複雑になっている。アメリカは沖縄を日本から分離して支配しているので日本本土を外国と決めているし、佐藤内閣も沖縄を外国とみなして、沖縄という外国から日本人瀬長亀次郎が帰国したことを証すると政府の公印を押している。さて私が第1回目に拒否された渡航申請を出したのは1957年の3月である。私は56年12月の選挙で那覇市長に当選した。アメリカ軍事権力者とその手先どもは、合法的に当選した瀬長を市長の椅子から追放するために常識では考えられない恥知らずな弾圧を加えた。しかし市民はそれに屈せず抵抗を一段と強めた。私は人民党の公約であった「那覇市への戦災復興費と義務教育費の全額国庫支出を日本政府に要求するため」と明記して渡航申請をした。これにたいしてアメリカは補助申請書を私に要求した。この申請書は実に29項目にわたる宣誓書である。例えば、①私は共産主義者でありました②共産主義者ではありませんでした③なぜそうかその理由④私は日本で誰と会います、などなどである。そして最後に記載した事項で虚偽があった場合、法により逮捕投獄されても異議ありませんと宣誓するものです。当然、私はこれを拒否した。その後の申請は、このような調子でことごとく拒否されたが、拒否の理由をアメリカは示しえなかった。ただ1回、すなわち本法廷にすでに訴訟代理人から書面で出された〝請求の原因〟に明記されている「アジアの平和のための日本大会」出席のために申請した渡航証明書を拒否したとき、米「民政府」スポークスマン発表として拒否の理由をあきらかにしたことがある。