安保法制施行の日に考えたこと(3)

 島袋恵祐さんの発言の続きです。
 司法解剖もしました。診断は、急性硬膜下血腫及び外傷性クモ膜下血腫、多数の脳挫傷。本当に投げられただけでここまで傷を負うのでしょうか。自衛隊の中の事故ということで、警察が捜査するわけではなく、自衛隊の中にある警備隊が捜査をすることになりました。英吉の部隊の隊長、訓練の教官、投げた本人の3名が業務上過失致死の疑いで調べられることになりました。その3名からは、ひたすら謝るばかりで、訓練中の事故でしたの一点張り。詳しい話は警備隊の捜査を受けていて、お話はできないとのことでした。

 私たち家族は、訓練の事故調査報告書を開示するようにと防衛省に要求しました。半年ほどたって報告書が届きました。開けてみて愕然としました。中身はほとんどが黒塗りにされていました。事故の内容、傷病、経緯など、もっとひどかったのは、英吉の名前までもが黒塗りにされていたことです。家族が要求したものにたいしてこのような報告書とは本当にひどい。まったく説明になっていない。国会議員を通じて防衛省職員を国会議員室に呼んで、話をできる場を設けてくれました。そこで黒塗りにされた部分を開示してほしいと防衛省職員に言うと、国の安全にかかわることであり、開示することはできません。名前をこのようにしたのは、プライバシーを尊重するためですと言われました。一人の命を守れない自衛隊が、よくもそんなことを言えたものだと怒りで震えあがりました。何が国のためだ、英吉を殺しておいて。それから全体の捜査が終わったと手紙が来ました。教官は嫌疑不十分、投げた相手は起訴猶予、不起訴処分になったとのことでした。隊長はおとがめなしでした。英吉が亡くなってから家族はどん底の闇にいました。その家族に追い打ちをかける手紙の内容。

 英吉が生きていたあかしとして父は事故の内容を書き、一冊の本にしました。『命の雫』という本です。その本を出版したことで、私たち家族に転機が訪れました。ある日、一本の電話がありました。宮崎に住む女性からでした。その女性は「私の息子は、海上自衛官で、さわぎりという護衛艦の中で隊員からいじめにあい、自殺しました。国を相手に裁判をして、一審は敗訴。控訴して二審で逆転勝訴をしました。お父さんの書いた本を読みました。島袋さんの息子さんの事件は本当に許せません。札幌にすばらしい弁護士がいます。紹介しますので、裁判をして、ぜひ、息子さんの無念を晴らしてください」と、泣きながら話されていました。
 弁護士を紹介してもらい、2010年8月3日に札幌地裁に国を相手に提訴をしました。裁判名は、父の書いた本のタイトルから「命の雫裁判」となりました。札幌と沖縄、東京で裁判を支援する会が設立され、正当な裁判を求める署名が1万筆を超えました。支援の輪が広がりました。

 2013年3月29日、裁判は、国の責任を認める形で勝訴することができました。裁判長は、徒手格闘訓練について、旺盛な闘志をもって敵である相手を殺傷する、または捕獲するための戦闘手段であり、その訓練には本来的に声明、身体にたいする一定の危険が内在すると指摘。訓練にたいする危険から訓練者を保護するため、常に安全に配慮し、事故の発生を未然に防止すべき一般的な注意義務を負うと、私たち原告の主張を認める判断をしました。そのうえで国の、損害賠償請求権は3年で時効で消滅したとの主張を退け、受け身によって対処できる技量はなく、危険性を教官は予見できたとして、過失を認定しました。しかし、私と家族は、ずっと訴え続けていたいじめ、暴行、体罰があったことは、最後まで認められることはありませんでした。国は控訴を断念し、判決は確定しました。「命の雫」裁判は、ほんとうに多くの皆様のご支援、ご協力で終えることができました。
 私は、英吉が亡くなって、そして裁判をたたかって、命とは何か、人権とは何かを考えるようになりました。自衛隊は、一度基地の中に入ってしまえば、そこで何がおこっているかさっぱり分かりません。