安保法制施行の日に考えたこと(2)

 島袋恵祐さんの発言を紹介します。

 昨年9月19日に自民・公明の安倍政権によって、国民の多数が反対しているにも関わらず強行に成立された戦争法がきょう施行されることにたいし、断固、抗議いたします。

 私は、元自衛官です。高校卒業後、11年前の2005年3月24日に陸上自衛隊に入隊しました。私は、双子の兄弟の弟であります。兄の名前は英吉といいます。英吉と二人そろって自衛隊に入隊しました。入隊した理由は、両親は自営業をしていて、その当時、家庭の経済状況が厳しく、2人そろって大学へ通うことは無理でした。家族を助けるために考えたのが、国家公務員である自衛隊の道でした。試験に合格をして、毎月5万円を仕送りする約束で入隊をしました。
 入隊して初めの3カ月は、自衛隊の基礎を叩き込まれます。気をつけ、休憩などの基本動作から始まり、小銃の扱い方、射撃訓練、先頭訓練など、また、自衛隊(注:日本軍を含め)の戦前・戦後の歴史を学ぶ座学もあります。あとはひたすら体力レースでした。ランニング、筋トレなど班長から厳しい指導、ときには手が出ることもありました。新隊員の教育が終わると、各部隊へ配属となります。私は千葉の通信部隊に、兄は北海道の輸送部隊の配属となり、初めて私たち兄弟は離れ離れに過ごすことになりました。週に1、2回はお互い連絡を取り合っていました。「英吉、元気にしてるか。北海道寒いやに、正月は沖縄に帰れるのか」など、私たち兄弟は、兄弟というより本当に仲の良い友達みたいに仲が良かったです。
 部隊に配属されて1年半後の2006年11月21日、仲の良かった私たちを切り裂く事件が起きます。仕事を終えて部屋に戻ってくると、父からの着信がありました。電話をすると父が、「英吉の部隊の隊長から電話があり、訓練中に倒れて重篤の状態になっている、すぐに北海道の英吉のところに行ってほしい、お父さんたちも沖縄から向かうから」。私は、何事が起ったかと思い、あわてて自分の部隊の隊長のところに行き、休暇願を申請しました。千葉から羽田空港に向かい、千歳行きの飛行機に飛び乗り、北海道へ。千歳空港では、英吉の部隊の上司二人が迎えに来ていました。徒手格闘訓練をしていて、背中から落下して意識不明の状態になった、今も意識が回復していませんと上司から説明がありました。
 札幌の病院に行くと、自衛官がずらっと並んでいる、ほとんどが幹部自衛官でした。とても異常でした。英吉は、集中治療室のベッドで横たわっていました。医療機器が体中に張りめぐらされていました。病院の担当医は、脳が飛び出しそうで頭を開いて手術ができない、もし、意識が回復したとしても障害が残る、2、3日がヤマだと言われました。私は、絶望しました。なぜ、このようなことに。英吉の顔は歯が欠け、傷だらけ。体もうっ血しており、傷だらけでした。投げられただけで本当にここまで傷を負うのか、私は、疑問に思いました。両親は沖縄からでしたので、その日に来ることができず、翌日の朝9時ころ、病院に到着しました。母は、英吉の前で泣き崩れました。その時から英吉の心肺は停止し、心臓マッサージが開始されました。マッサージが開始され、心肺が回復するもののまた停止し、またマッサージする。その間隔がどんどん短くなっていき、最後は回復することなく、2006年11月22日、英吉は札幌の地で二十歳という若さで亡くなりました。成人式に合わせて、休暇をとって一緒に沖縄で成人式に行こうと話しをしていた矢先でした。