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相模ダムと中国人強制連行関係資料(11)

資料6-6 芹沢氏の話

 

 K:捕虜と直接の対話とか、日常的な話しをしましたか?

 S:それは作業上の事の話しですね。まあ一台のトロッコを何人のクリ(苦力)で押していけと。5台も6台もトロッコを列べてね。この1台を4ったりで押してもらうというような事でさぁ。そしてここからここまでのジャリはこれだけの袋へけずって袋の中に入ろとか、そういう事の指図をしていたあです。こんな事の指図だったから毎日同じ様な事のくり返しでさあ。

 K:300人ぐらいの人間を1人で通訳するのは大変だったでしょう・・・。

 S:いや、1人ではなかったです。私は加賀山班の工事をしていたんです。もう一つは佐々木班にいて、捕虜は2組に分れていたんです。ですから私の方に来ていたのは何人ぐらい来ていたんだかね。何人来ていたかは覚えていなかったんだけんどね。

 K:加賀山さんは熊谷組の下請けって事ですか?

 S:そうです。佐々木班と加賀山班の2班に中国人捕虜は分れていたんで、私の方に来た人数は覚えていなかった。捕虜もみんな出てはなかったでしょう。手足の悪いやつもいれば病気のもいるしね。・・・

 K:では、中国人捕虜は加賀山班と佐々木班だけで他の中村班、今村班、小俣班・・・だとかには行っていないんですね。

 S:私はその2班だけと思っていましたね。今村だとか中村だのは湖水のこっち側で、私の行っていた現場は勝瀬の向こうの側ですから、そこへ朝晩、4列縦隊で連れてこられたんで、それらが来る前に私は現場に行っていました。

 K:4列縦隊で連れて行かれる時も身体に拘束があった事はないんですか?

 S:いや、そういう事はなかったです。自由でした。支那方の班長みたいなのが先頭で指図をしていましたので、私は直接には何も言わなかったでさあ。

 K:では3月に来て翌年の7月に松本(東海陸軍班地下施設並隧道工事)に移った訳ですが、それまでずっと通訳の仕事をされていたのですか?

 S:いや、そうではなかったです。3月に支那がここに来て、私が役場に行ったのが4月のお祭り(13日)頃だったのかなあ。中国人が来て、すぐではなかったと思います。その前に山下さんだとか元局(清水)なのが行っていたが、言葉が分らなくて手におえないというので私が行った訳でさあ。だから私は捕虜との接触の時間(期間)は短かかったです。4月半ば頃から行きだして、8月に逃亡捕虜が出来たので、それまでです。それまでにも2度ばかり逃亡事件があったんです。警察といい、特高といい、外事課の連中もそれを追って捜していたんだけんどね。