相模ダムと中国人強制連行関係資料(10)
資料6-5
『相模湖ダムの歴史 中間報告』(1977年7月)には、作業場で通訳をしていた人の証言も記録している。芹沢氏は、華北労工協会が派遣した通訳ではなく、熊谷組配下の加賀山班で現場通訳を務めた。
芹沢氏の話
S:芹沢氏
K:記録する会
(明らかな誤字などは訂正した)
S:S19年の3月17日中国人の捕虜が相模湖に着きましたが、私はまだその頃は指令が出てなかったので、ただこいつらの面倒をみるんだなと見ていました。
K:駅までは通訳さんが付いて来たんですか?
S:駅まではどういう方法で来たか知りませんが、こっちからは熊谷組が迎えに行っていたんでしょう。収容所がいな川という部落(現在の湖畔)に出来ていたのでそこに300人程入ったけれど途中で死んだからいくらか減って来たって言ってましたね。現在の大正館の下の所に2棟あったね。それに食堂が1棟あった。そこには谷津君が働いていました。私は収容所の中には関係ない現場の世話役だったから収容所内の事はよく分りません。
K: そうしますと毎日通訳という仕事の場合、家から直接作業現場に出て行かれたのですか?
S:現場へ行って捕虜を連れて来る係りの者(外事課)がいるわけだから今日は何人来たと言って受け取ってトロ押しをやらせたのが仕事なんです。ダムのコンクリ工事のジャリ、砂、そういう物を川から掘って、トロで1㎞ぐらい押して行くわけでさぁ。
K:朝は何時頃から仕事が始まったんですか?
S:朝はそんなに早くなかったね。普通だったね。4月の陽気だったから7時か8時頃だったでしょう。
K:夜は・・・?
S:夜は5時か6時頃です。そこの作業場で、中国人の班長が付いているんで、その班長が人数を調べて熊谷組の監督さんの誰かが迎えに来て人数を確認し、現場から収容所まで帰るんです。その他に大抵外事課の者が一緒に迎えに来ていたね。私も帰る時、捕虜の指導者的なのと一緒に話しながら帰る事もありました。