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相模ダムと中国人強制連行関係資料(6)

 資料6-1 「中国人殉難者名簿」(中国人殉難者名簿共同作成実行委員会、1960年2月)

 相模湖ダムの中国人強制連行問題は、いつころからとりくみはじめられたのだろうか。1950年代の遺骨送還運動では、神奈川県では横浜の華僑墓地に埋められていた中国人俘虜殉難者の遺骨が調査され、函館および足尾のものと判明し、1953年8月26日に中国に送還されている。相模湖(與瀬)ダムも調査されたはずだが、1960年2月に中国人殉難者名簿共同作成実行委員会が作成した「中国人殉難者名簿」では、「“遺骨はダム水底になっている”という噂があり、数回にわたり調査をおこなった」「船中死亡の高友、閻宝全、郭校真の火葬許可証が門司市から発行されており、また同市で火葬にしたことが判明したが、遺骨の所在が不明のため、一九五八・四・一〇の第八次送還に三名の位牌を捧持した」と記述している。

 これに続くのが「相模湖、ダムの歴史を記録する会」の調査活動であろうか。相模原市相模湖町在住で、相模湖ダムの歴史を記録する会の橋本登志子さんは中間報告が作成された経緯をつぎのように語っている。(「地方史を通して歴史全体を考える―相模湖ダムと朝鮮人・中国人強制連行」 『地鳴 津久井平和のつどい十五年』所収)

 「相模湖周辺に住む私たちが『相模湖、ダムの歴史を記録する会』をつくったのは、ダム建設にともなうこれらの史実に私たち自身が無知であったことに気づいたからです。ダム建設の記念として神奈川県企業庁によって電気科学館が建てられています。その館内掲示の文章に『勝瀬部落の人や近隣の人々の協力・・』とありますが、強制連行によって働かされた朝鮮人・中国人についてはひと言もふれていません。そしてこの史実は神奈川県史はもちろん、津久井郡史、相模湖町史にも記されていないのです。このダム建設の歴史は、一山村、一神奈川県だけのものではなく、当時の日本社会の凝縮された姿でした。

 そのような共通認識にたち一九七六年三月、私たちは『相模湖、ダムの歴史を記録する会』を発足させました。一年余の期間をかけて、翌年七月、中間報告書を作成し、多くの人々の関心を集めました」

 この中間報告は、当時の様子を知る人にたいし記録する会がインタビューした記録である。「佐々木氏の話」は、証言者の姓だけであり、プロフィールもないので、証言内容から推測するしかないが、熊谷組與瀬作業所の2人の職場長のうちの1人である佐々木欽一氏であろう。佐々木しは、相模ダムから4キロ下流の津久井(通称沼本)ダムの現場で中国人・朝鮮人を使って工事を担当した。