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相模ダムと中国人強制連行関係資料(5)

 資料5:相模湖では、「相模湖・ダム建設殉職者合同追悼会」が毎年7月末に開催され、昨年2014年は36回目であった。この式典では、地元の人々によって当時のことが語られている。『続々・津久井湖を語る』には、相模湖町長だった小野津茂明氏、藤野町長だった倉田知昭氏がダム建設に触れている。

*小野津茂明「相模ダム湖銘碑除幕式で白らの勤労奉仕思い出す」

 県立相模湖公園内に県が新たに建立した相模ダム湖銘碑の除幕式が十月二十一日に行われ、相模湖町の小野澤町長も出席した。この後第十五回ダム建設殉職者合同追悼会も行われたが、同会の十五周年記念誌に町長は旧制中学時代(相原農蚕)にダム建設の勤労奉仕をした思い出話を寄せている。その話をもとに改めて町長が語る。

 「相模ダムは昭和十五年に着工されましたが、私も現場で一カ月ほど働いたことがあります。相原農蚕当時のことですが、その頃私は下級生でした。私の家は内郷ですから現場に近かったんですが、その一カ月間は泊まり込みでした。当時は今の役場がある所に建設工事事務所がありました。その奥にあったかなり広い日本間に泊まりましたが、上級生は今公園になっている所にあった木造三階建ての目黒練成道場に泊まりました」

 「その一カ月間、勤労奉仕といってもつけ替え道路の工事を手伝うくらいでたいした仕事をしたわけではありませんが、食べざかりのもんですからとにかく腹が減ってしようがなかったことを覚えています。食事は高梁(コウリャン)飯といってモロコシの一種ですが、とても粗末なものでした。ですから最初はみんな下痢をしたくらいです。しかし、何か勝手に買って食べるわけにもいきませんので、我慢して食べましたが、ある時その昼の弁当で嘘がばれてしまったんですね。というのは上級生の分まで下級生がもらいに行くんですが、上級生がその数をごまかしたんです。それがばれて上級生が先生にひどく叱られました。そのとばっちりが私に来まして『お前が告げ口したんだろう』と十人くらいに取り囲まれ一発、二発と殴られました」

 「その当時、強制連行された中国、朝鮮の方がどのくらいいたかはわかりませんでしたが、中国人の捕虜が働いているのを見かけたことはよくあります。現場が私の通学路でしたから。その通学路は最初、奥畑から嵐山の中腹の細い道を通リバス道(県道)に出て、つり橋を渡って飯場を通り抜け駅に行くコースでしたが、嵐山が通行止めになると、堰堤をつくるためにベルトコンベヤーを設置した木製の橋を渡って駅まで行きました。しかし、その橋は工事用のもので板が張ってありませんからこわごわ渡ったものです。それから嵐山の中腹の道も冬は朝六時頃でも真っ暗でしたからこわかったですね。こんな通学の苦労も含めダムエ事には私も協力したというか協力させられたというか思い出深いものがあります」

 苦笑しながら町長はこう語ったが、「しかしダムエ事で多くの犠牲者が出たことはまったく知りませんでした。今となっては、殉職者のご冥福をひたすらお祈りするだけです」と神妙な表情で結んだ。                      (平成五年十月)