相模ダムと中国人強制連行関係資料(4)

 資料4:『相模川流域誌』によれば、相模湖ダム工事に動員された学徒は、日本大学土木科・早稲田第二高等学院・横浜高等工業学校建築科・県立平塚農業学校・県立愛甲農業学校・県立相原農蚕学校・私立藤沢中学校の7校で、鉄筋、丸太、角材、セメントなどの材料運搬や小石をトロッコに積み、ウインチで引き上げる作業や隣の藤野町まで行き、つり橋工事 などの重労働作業に宿舎または民家に寝泊まりしながら従事した。『昭和十八年十二月一日』(「学徒出陣25周年記念手記出版会」1969年)にも樋口兼其という旧制山梨県立日川中学校生徒の手記が掲載されている。

「学徒出陣」のあとに 樋口兼其 東京都・45歳・会社員

 私たちの級は早稲田大学勤労報国隊第十二大隊与瀬中隊という長い名称の集団に吸収されて、九月までの三ヶ月間神奈川県津久井郡の与瀬町にあるダム工事現場に動員されたのである。

 指定された六月十二日、私たちは寝具と日用品を持って字校に集り、荷物はトラックに載せた上、新宿駅からの列車で与瀬駅に下りた。郷旦との往復の丁度中間にある場所で、車窓から狭い宿場町を見てはいたが、下車したのは始めてだった。(略)

 私たちはその日宿舎に当てられる目黒錬成道場と看板を出した大きな藁葺屋根の農家に入った。湖底に沈む部落にあった古い農家を、持ち主が買い取って移築したものであった。 一階の大部分は締めきった立派な座敷で、実際は持ち主の別荘として使われる部分であった。私たちは百畳敷の三階の広間と、二階と一階の一部に級毎に別れて寝所を割り当てられた。食堂は近くの桑畑の間に急造された粗末な掘立小屋で学生食堂と宿舎の間には鉄条網を張りめぐらせた同じような木造小屋があって、北支から連行されて来た八路軍の捕虜といわれる人たちが収容されていた。

私たちは翌日から宿舎の眼の下にあたる河原に出て行き、暑い日ざしを浴びながら八路の捕虜と同じように、ダム工事のコンクリート用骨伐(材か?)採集作業を割り当てられた、今なら大部分を機械力に頼っているのであるが、当時はどこのダム工事現場でも、河原の土砂をシャベルで掘ってトロッコに乗せて運びふるいにかけて、石と小石と砂にわけてコンクリートの骨材としたのであった。それは土方作業の中でも最も原始的な、つまり最も体力を必要とする。いや体力だけしか必要としない単純な重労働であった。暑い夏の陽は頭と背中とを焼け付くように照らした。馴れない手に重いつるはしを振りあげて土砂の壁を崩す者、スコップでトロッコに投げ入れる者、満載したトロッコを押して集積所まで運ぶ者、仕事馴れした監督は五人を一組として仕事をさせるよう命令したが、学生たちの体力はまちまちだったから、それはエジプトに使役されるバビロンの虜囚にも似ていた。

 西平正喜『相模湖賛歌』(文芸社 2002年9月)は、小説仕立てだが、中国人に関する描写などは、誇張されずリアルに表現されているようだ。宮本忠人『学徒出陣前後―“わだつみ世代”の日本共産党員の覚書』1996年は、自家製版で印刷部数も少なく、図書館では閲覧は出来ないようだ。