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相模ダムと中国人強制連行関係資料(3)

資料3:造船所から相模ダムの建設現場ヘ 藤沢中学校 吉澤邦明

 相模ダム工事に動員された学徒たちは、中国人との接触は少なかったものの、証言を残している。『学徒勤労動員記録』(神奈川の学徒勤労動員を記録する会編)には、私立藤沢中学5年生だった吉澤氏の手記が掲載されている。(相模ダム部分を転載)

 10月に入ると引率の服部先生より、22日から中央本線の与瀬駅(現相模湖駅)にある相模ダムの建設工事ヘシフトすることが発表されました。私たちは与瀬駅に初めて降りたち、周囲の山々をしみじみ眺め、その緑の素晴らしきと風景の美しさにすっかり感動させられ気持ちのなごむ思いでいっぱいでした。と同時に、困難急な時になぜダムなどを建設するのかと、理解に苦しみました。しかし戦後完成された人造湖「相模湖」を見た時に、その工事がいかに大切であったかがわかり、勤労学徒としての誇りをもつことができました。

 寮は藁茸き屋根の2階屋で元は養蚕業に使われた家の跡と思われる大きな家屋で、寝室は二階部分で、下の部屋にはすでに早稲田第二高校の学徒たちが入っていました。これから宿舎となる家の柱には「目黒錬成道場」と大書された看板が掛けられ、部屋は百畳敷と思われるほどの大広間で、仕切りなどなく全員がいっせいに寝起きすることになり、持参した寝具や身の回り品は布団の上に置き各自が管理しました。

 相模ダムでは何組かのグループに分かれて作業することになり、私は20名のグループの中に入り、毎朝定期券を使って隣駅の藤野町へ通勤して、桂川から川砂利を採取する仕事につきました。一日中スコップを持つ作業のため、手はまめだらけとなり、だいぶ苦労したことを覚えています。雨の日は堰堤のほうの作業で、二人一組となってモッコに50キロ詰めセメント袋を2袋担いで、堰堤の上を小走りで運ばされました。往復25回の計50袋で一日の作業は終わりとなるので、かなり無理してがんばり、すっかり肩を痛めてしまいました。

 10月にアメリカ軍爆撃機による第一回東京空襲があり、相模ダムで仕事をしていたわれわれの頭上にB29が飛来したことを知り、切歯扼腕したことを今も忘れません。また、建設中のダムはアメリカ軍機によって破壊されてしまうと噂され、いつ爆撃を受けるのかと戦々恐々としていました。ダムが完全な姿で完成でき本当に良かったと思います。

 工事現場には中国の八路軍の捕虜たちも使役されていましたが、彼らとはほとんど顔を合わすことはありませんでした。ただ一度だけ、朝礼の点呼とその時に配られる朝食を見ることができましたが、その食事たるやひどいもので唖然とさせられました。それは真っ黒なコッペパン一つに、小さな金物の食器に味噌汁というにはほど遠い水だけの汁だったことをはっきりと見ており、後で私たちの仲間の一人が気の毒に思って、家から持参した食料をこっそり持っていったということを聞き、ほっとした気持ちになりました。

 彼らは私たちがダムから引き揚げた後も1945(昭和20)年8月15日の終戦まで、長野県に移動して陸軍の地下壕掘りの作業に使役されていたとのこと。みな無事に故郷へ帰ることができたのか気になっていました。噂では中間に引き揚げる時は大変な騒ぎだったようで、当然なことだと同情させられました。