相模ダムと中国人強制連行関係資料(2)

 資料2:『相模川流域誌』 相模川流域誌編纂委員会(2010年)

 この流域史は、国土交通省関東地方整備局京浜河川事務所のもとにつくられた編纂委員会によって書かれたものである。

 相模ダムはなぜ作られたのかを押さえておくことは、中国人・朝鮮人の強制労働がなぜ行われたのかを考えるうえで欠かせない要素の一つである。流域誌は、「第2次世界大戦は装備近代化と物量戦となっていた。あらゆる産業と物資は戦争遂行が優先され、生産基地としての京浜工業地帯の役割は決定的であった。三大事業の『相模川河水統制事業』『京浜工業地帯埋立』『相模原都市建設区画整理』をいうが、そのかなめとしても軍事生産と工場をささえる水道と電力をまかなうものとして、『相模川河水統制事業』そのものが二大事業と戦争遂行の大前提となっていった」と指摘する。相模ダムは、「相模川河水統制事業」の一環として施工された。「相模川河水統制事業」が神奈川県議会で議決されたのは昭和13年(1938年)であるから、戦争の拡大の中で戦争遂行のための事業という位置づけを強めたということができるだろう。

 流域史は、昭和20年(1945年)6月21日、軍需省電力局長から「水力発電所建設工事に中止命令」がだされたことについて、「爆撃によるダム決壊での被害を危倶してのことともいわれる」とし、「陸軍には本土決戦にさいて、相模ダムを破壊して米軍の侵攻を阻止する計画もあった」こと、また、米軍も上陸作戦の際に相模ダムの破壊も作戦に含まれていたことが「平成3年(1991)、茅ヶ崎市史編さんの過程でアメリカのマッカサー記念館で作戦文書の全文が発見されて明らかになった」と指摘している。

 中国人強制労働について流域誌は、次のように記述している。

 「中国人の労働力は昭和19年(1944) に296人が連行されている。連行者は中国軍八路軍などの兵士がおもであって中国内の収容所から送られ、昭和20年(1945)まで与瀬作業所に配属された。労働は苛酷をきわめて朝6時から夜6時まで、つねに警察の監視の下で砂利採取、索道運搬、木材運搬などの重労働にあたって、一定の仕事量が決められていた。また、食事もきわめて劣悪で主食は小麦・大豆カス・とうもろこしの粉・さつま芋で栄養不足によって多くが病気をおっていた。このよう状況で、監視をかいくぐって逃亡をした人もいたが、検挙され取調べ中に死亡している例もある。病気をおもに多くの人々が死亡し中国に帰国できなかった。中国人の労働力は延べ64万人となっている」

 また、流域誌は、平成5年(1993)に建立された相模ダムの殉職・殉難者の新「湖銘碑」について、「相模湖・相模ダム建設殉職者合同追悼会の『史実にもとづく』『日本語、朝鮮語、中国語の3カ国語』の湖銘碑をという活動に、平成3年(1991) 7月、長洲知事が実行委員会と面談をした。実行委員会の知事名で『湖銘碑』をという要望に知事は『知事の名前でやりましょう。企業庁では判断できない問題も含まれるので、民際外交として全体としての取組が必要です。』…とこたえて、実現した」と紹介している。