相模ダムと中国人強制連行関係資料(1)

資料1:『相模湖町史 歴史編』(相模湖町史編さん委員会編 2001年3月21日)

 全国135の中国人強制連行現場を調べ歩いた作家の野添憲治さんは、「どこの市町村でも分厚い立派な市町村史を主パンしているが、アジア太平洋戦争の時に地元であった朝鮮人・中国人強制連行のことを詳しく書いているのは、いくつもなかった。数行で軽く触れているのを合わせても、三割くらいよりなかった」と述べている(『企業の責任―中国人強制連行の現場から―』)。神奈川県相模原市相模ダムも中国人強制連行現場の一つだが、ここも同様に相模湖に関係のある自治体史には、中国人強制連行の歴史がまったく抜け落ちていたという。

 2001年に出版された『相模湖町史 歴史編』(相模湖町史編さん委員会編)は、相模湖での中国人・朝鮮人の強制労働を取り上げている。

▽「最も労働力が必要であった時期は一九四三年から一九四五年初めまでで、短期に集中して労働者を動員して完成させようとした」とし、①津久井郡内、与瀬はもちろん、小原・千木良・内郷の各町村からの動員②学徒の動員。国民学校高等科の生徒から青年学校、高等学校、大学生に至るまで③在住朝鮮人および朝鮮人強制連行労働者の動員④中国人―に分類できる。

 ▽朝鮮人強制連行労働者は、「熊谷組与瀬作業所 四〇〇人 与瀬町/大倉組沼本作業所 四七三人 内郷村/熊谷組相模川作業所 四〇七人 川尻村/計 一二八〇人」にもなるとしている。その労働と生活の実態については、「相模湖ダムの歴史を記録する会」が刊行した『相模湖ダムの歴史―強制連行の記録―』や神奈川県刊『神奈川と朝鮮』を挙げて、「熊谷組の宿舎は県立電気館のあったところで、まわりは崖で高い塀に囲まれて逃げられないようになっていたこと、夜は監視がつき軍隊式に管理されていたところで、当初は逃亡者は厳しく罰せられたことなどが指摘されている」としている。

 ▽熊谷組が外務省に提出した「華人労務者就労顛末報告書」の概要を資料として掲載している。

 ▽「中国人に対する管理は朝鮮人労働者に対する警戒より厳しく、逃亡などには厳重な監視が行われ」たが、その理由は「華人労務者は共産軍の俘虜及帰順兵なるをもって注意を要する一方、重慶分子との通諜(ママ)謀略を防止し、且つ鮮人不程分子との通諜防止の取締を主要目的とし、且つ凶暴なる所為の警戒取締に従事するものとす」という「神奈川県参事会議案原稿」の記事も掲載している。

 『相模湖町史 歴史編』は、このように多角的に相模湖における中国人・朝鮮人の強制連行について検討を加えていることが分かる。こうした叙述を可能にしたのは、数十年に及ぶ「相模湖ダムの歴史を記録する会」の地元での証言の掘り起こしと、中国での被害者からの聞き取りがあったからだろう。