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西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(12)

 調査員の一人、蘇秀芬(そ・しゅうふん)さんは、『西松安野友好基金和解事業報告書』に次のように書いている。

 ――2011年5月、私は広島を訪問する活動に参加し、心を動かされた。日中の多くのボランティアが、第2次世界大戦期の労工及び遺族の正義を取り戻すために、自分の時間を使い苦労をいとわず奔走しているのを見て、労工の遺族として、私も労工たちのために何かするべきと思った。訪問が終わり帰国した。私は、基金運営委員会にボランティアとして調査に参加したいと申し出て、すぐに委員会の同意を得ることができた。

 ――女性が一人で調査に出かけるのは安全の問題などさまざまな困難があったが、「遺族を何人か探し出すという簡単なことではなく、労工のために正義を取り戻し、歴史事実を証明するために」と家族や友人を説得し、協力を得た。調査に同行してくれることもあった。

 ――例えば、山東省で樊訓徳さんを探したとき、名簿記載の住所は周村だったが、それは村名ではなく、地域の総称だった。私は、姓から調べていき、ついに樊という村を見つけた。しかし、村民はそんな人はいないと言った。でも私はあきらめなかった。村で年長者の樊彬さんを探し出して、族譜を見せてほしいと頼んだ。こうして樊徳修という人が探している労工だと分かった。彼の遺族を探したとき一族の人がこう話した。郭正芬という養女が2歳のとき、再婚した母に連れられて来て、樊訓徳さんが亡くなるまで一緒に暮らしたと。現在は張店に住んでいるというが、どうしても住所と電話番号を教えてくれなかった。私は、友人を通じて戸籍の担当部局に助けを求め、詳しい住所を入手して、彼女の家を訪ねた。

 しかし、その女性は以外にも補償金の受け取りを断った。

 ――私は来意を伝え、労工のために訴訟が行なわれたことや尊厳を取り戻す活動をすべて話したが、意外にも彼女は補償金の受け取りを拒否した。私はとても驚いた。尋ねても、理由を教えてくれなかった。何回も事情を説明したが、彼女はあくまで補償金を受け取らないと言うので、私はあきらめるしかなかった。苦労を重ねてようやく遺族を探し出したのに、私たちの努力が受け入れられなかったのは、残念だった。