熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(24)

孫式恒さんのインタビューは以上である。最後に同席したファミリーに聞いた。

 

 ――お母さんと一緒に行かれた妹さんは、きょうはいらっしゃいますか?

 (孫さんの妹・孫淑蘭)はい、私です。そのとき、私は6歳でした。母に電柱の上の方を見なさいといわれました。首が並んでいました。私は、怖くて涙がでてきて見ることができませんでしたが、母は、一つひとつ顔を見て、その中に兄の首がないことを確認し、すぐに家に戻り、牛を売りました。そのお金を日本軍に渡して、釈放してもらいました。母は、纏足をしていましたので、歩くのも大変だったと思いますし、それに6歳の私をつれていました。それでも何キロも離れたところに行き、兄を助け出しました。すごくえらい母だと思います。

 ――孫金義さん(末娘)からもお話をお聞きします。今年4月の清明節に抗日紀念館で公表された「強制連行で日本に行った中国人労工の名簿」でお父さんの名前を見つけて、そのあと、お父さんから話を聞いて回想録を書いたのだそうですね。

 (孫金義)そうです。父は、自分の経歴はもちろん、自分が受けたこころや体の傷についても話すことはあまりありませんでした。名前と年齢、村名を見て、父のことだと確信し、話を聞きました。

 ――約4万人の名簿で、検索で名前を探すようにはなっていないので、お父さんの名前を見つけるのは大変根気がいったのではありませんか。

 (他の家族)一晩中かかって見つけたと言っていました。

 (孫金義)最後は、目が充血し、かすんではっきり見えない状態でした。

 ――長い時間、お話しくださり、ありがとうございました。シンクーラ(お疲れ様でした)。