熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(22)

 当時、天津でも青島でも国民党政府が「労工招待所」を置き、そこで国民党軍に入ることを強要した。それがいやな労工たちは、脱出を試み、共産党の勢力下にある解放区に逃げ込んだ。このあたりのことは、孫式恒さんの体験と合致する。しかし、「苦難を訴える大会」が開かれ、そこで日本での体験を訴えたというのは、初めて聞くことであり、強く興味を持った。

 

 ――では、帰国したときのことをききます。着いたのは青島ですか。

 (孫)そうです。

 ――当時、青島を支配していたのは、国民党軍でしたか。

 (孫)そうです。

 ――青島について国民党軍に捕まったのですか。

 (孫)船から下りたとき、国民党は回りに大きな縄を張り、40日間くらいそちらで滞在させました。その間に、国民党軍に入りなさいとずいぶん勧められました。

 ――どんなところに泊められたのですか。

 (孫)ピンファン、平屋に住まわされました。自由に出入りすることもできませんでした。

 ――それでも八路軍出身者が国民党軍に加わるようなことはなく、国民党軍もあきらめて釈放したのですね。

 (孫)そう。すぐ解放区に入ることができました。解放区ではどこでも私たちは歓迎され、食べ物もいっぱい並べられました。指導者が「みなさんは死の中から命を拾った。日本で苦しんだ体験を披露してください」と言われ、体験を話しました。

 ――そのときどれくらいの人が話を聞きに来ていたのですか。

 (孫)幹部の人たちを前にした場ですから、それほどたくさんというわけではありません。いすに座って話しました。

 ――興味を持たれたのは、市街地をデモしたときのことですか。

 (孫)特別に関心を持たれた場面があったということはありません。長年の苦しみを早く癒して元の職場に戻ってくださいということでした。

 

 解放区で「苦難を訴える大会に参加した」ときの様子は語られなかった。寿光ではどうだったのですかと、地名をあげて質問をすべきだったようだ。