熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(20)
[孫さんは、続けて中国人労工の待遇改善を訴えてデモをおこなったことを語り始めた。]
(孫)日本が戦争に負けた後、松本市の市街をみんなでスローガンを叫びながらデモしました。手にはぬかのマントウを持っていました。アメリカ人に見せようとしたのです。
――私たちは、こんな粗末なものしか食べられないと訴えたかったのですね。そのアメリカ人というのはどういう人ですか。
(孫)元々日本人に訴えようとしたのですが、日本人は全部隠れてしまいました。それで1人の日本人に連れられて、アメリカの軍官のところに行ったのです。
――アメリカの責任ある人が出てきて、訴えを聞いてくれたのですか。
(孫)持っていたのは食べ物だけではありません。遺骨も持っていました。アメリカの司令官が出てきて、死んだ人のことは仕方がないが、これからの食事は、私たちが管理しますという話だったと記憶しています。
――少しはましな食事になったのですか。
(孫)アメリカの軍人たちは、日本人に命令して米や小麦粉を私たちに渡させました。
――遺骨を持っていった理由は?
(孫)監督する日本人も逃げていったので私たちは自由になり、それで持っていったのです。
――アメリカ人が理解できるとお考えだったのですね。
(孫)認めるかどうか分かりませんが。
[若干の休憩のあと、孫さんが労働について話し始めた]
(孫)雨が降ったとき、蓑を着て、草履を履いて働きましたが、雨がすごく多いときは、仕事は休みになりました。
――それは神奈川県のときのことですね。
(孫)そうです。