熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(16)
次に聞いたのは、日本で亡くなった人々の遺骨はどうなったかという点である。
「中国殉難者名簿」(1960年2月、中国人殉難者名簿共同作成実行委員会)では、
(与瀬作業所)
・「外務省報告書」によれば、いわゆる“契約”人員二九六名、乗船人員は二九二名で、四名減となっている。これは、北京収容所より一九六名、済南収容所より一〇〇名を連行したが、乗船時二九二名と四名減じていたもので、この間に死亡を含む事故を推定しうるが、不明である。
・火葬許可書の有無 不明
・遺骨保管場所 不明
・事業場側証言 火葬にして送還済
(松本作業所)
・火葬許可書の有無 不明
・遺骨保管場所 不明
・船中死亡3名の火葬許可証が門司市から発行され、同市で火葬したことが判明したが、遺骨の所在が不明のため、一九五八・四・一〇の第八次送還に三名の位牌を捧持した。
などが記載されている。
つまり名簿作成実行委員会の調査では、事業場側は「火葬して送還済み」としているが、火葬許可書も見つからず、遺骨の保管場所も不明であった。
熊谷組が死者および遺骨についてどのような考えを持っていたかわからないが、平岡作業所では、お寺に遺骨を預けているが、各務原作業所では、中国人宿舎に安置していた。
――孫さんたちの中国隊では、34人が亡くなっています。青島から下関までの船の中で3人、下関に上陸してすぐに1人亡くなり、神奈川に向かう汽車のなかで1人亡くなっています。神奈川県の与瀬では22人。長野県では7人ですが、遺体を焼いた記憶はありますか。
(孫)日本人ではなく、中国人が火葬しました。葬式はありませんでしたが、長野では、お坊さんを呼んで儀式をおこないました。
――どんなところで遺体を焼きましたか。
(孫)その都度火葬しました。川で働いていたときは、川で。山で働いていたときは山で。
――神奈川県から長野県に移動するとき、遺骨も持って行きましたか。
(孫)そうです。持って行きました。