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熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(11)

 ここでいったん聞き取りの再生を中断し、与瀬作業所のようすを孫式恒さんは「回想録」でどう語っていたかを見よう。

 

 神奈川県の山の中の川のほとりの熊谷組与瀬作業所と呼ばれるところに到着した。4月中旬(旧暦の3月末)のことである。

 日本に着いた時、中国の雰囲気と似ている気がした。:しばしば銃声と飛行機の爆撃の音がするからだ。私達は神奈川県の山の中に閉じ込められ、57番の熊谷組与瀬作業所で働かされた。番号が編成され、仕事では番号を呼ばれるだけで、名前は呼ばれない。私の仕事号は82番で、黄宗厳は87番。山の斜面の下に着くと、一息つくこともなくトロッコに石を積む作業をさせられた。隊長と河南籍の馬副隊長 が私達の工事監督をしていた。この馬副隊長は、日本の畜生のために命がけで働いて、だらだらした仕事をする者は鞭でたたいた。しかし私達はやはりできるだけゆっくり作業をし、誰がよく仕事をしないかを分からないようにした。;冬は昼間の明るい時だけ仕事をしたが、夏は昼も夜も交代で働いた。夜勤で疲れた時、わざと電球を壊して、工事監督をさけ、ちょっと休憩した。毎日12時間働いて、間に30分の食事の時間があった。このような重労働で、1日の3度の食事は野菜もスープもなく、ぬかのウオトウだけで、食べても腹半分にしかならない。(中略)

 私達は、仕事の行き帰りに、丸木橋を通った。橋の下はたいへん流れが速い。1944年秋を過ぎたある日の夕方、仕事を終えて寮に帰る時、突然、仲間が過度の疲労でふらふらして橋の上から河に落ちた。川の流れに巻き込まれて流された。泳ぎのできる労工らが氷のように冷たい水の中に跳び込んで、救出した。人々は支え合い、私達は死亡率を10%までにした。

 

 ――橋から落ちた労工を同僚が川に飛び込んで助けたことがあったそうですが、その橋は、この絵にかいてある橋ですか。

 (孫)いいえ。小さい橋です。狭く、1人が通れるくらいの幅でした。

 ――橋はロープか何かにつかまりながら歩くのですか。

 (孫)何もありません。

 ――その労工が川に落ちたのは、どうしてでしょう。

 (孫)年配の人です。若者のように早く歩くことはできない。