西秀成氏の「大府飛行場の2本の滑走路=現地調査に加わって」

 愛知・大府飛行場中国人強制連行被害者を支援する会のニュース「みかん畑の大きなテント第4号 2014年12月」が送られてきました。9月13日に執り行われた「大府飛行場中国人強制連行殉難者第6回追悼式典」の報告と、追悼式典に先立ってとりくまれた強制連行跡をたどる現地調査のまとめなどが掲載されています。

 このなかでとくに注目されるのが、西秀成さんが「中国人が建設に参加させられたコンクリートの滑走路図の左側のもので、『新道才』 交差点のすぐ北側から始まり、『ミニストップ』のところまでが、第2期拡張工事の滑走路と考えられる」という点です。

  中央から左上にマッチ棒のような形で伸びている線が第2期拡張工事の滑走路であること、中国人はこの拡張工事で使われ、この滑走路のどこかでダイナマイト爆発で積み上げられていた土砂がくずれ、宋学海さんが生き埋めになり、そのときの怪我がもとでなくなった―これが現地調査で明確になったということです。

 以下、西さんの報告を転載します。

 

 

       大府飛行場の2本の滑走路=現地調査に加わって

                西秀成

         愛知・大府飛行場中国人強制連行被害者を支援する会ニュース

         みかん畑の大きなテント第4号 2014年12月

 慰霊祭の午前中におこなわれた現地調査では、平和委員会の大久保さんの案内で、飛行場の滑走路跡、整備工場跡やそこに達する誘導路跡、事務所跡、三菱重工の事務員が居住していた住宅などのほか、強制連行された中国人の居住していたテント跡、彼らが水を汲んでいた池の跡、死亡した人が焼かれた墓地などを見ることが出来た。

 私は、現地には五回以上行っているが、滑走路には正確な場所やつくられた時期、その他の整理が出来なかったが、今同の調査で疑問は氷解した。

 広瀬治雄『銃後と云う名の“戦争迷路"』(左図)などには、大府飛行場の滑走路の図が示されているが、それは1944年4月6日に竣工した滑走路の図であるc

 この滑走路は、幅が72mあった(『愛知県史・別編・文化財1 ・建造物・史跡』505頁、Wikipediaでは長さ1300m、幅60m、広瀬氏の本では、長さ1360m、幅100mとされている)。滑主路の北側は、直角ではなくカーブを描いているc その他、誘導路(長さ1000m、幅30m)が整備工場(現・冨木島小学校)まで続いていた。この滑走路は、コンクリートではなく、土を築き固めたものであり、両脇には側溝と掩蓋が一部残っている。掩蓋は幅50cm 、長さ70cm 、厚さ12cm ある(『愛知県史』同前)。

 しかし、東海緑線の道路にある「新道才」交差点から南東に延びる道路は、滑走路の面影を残しているc ウェブサイトでは、大府飛行場の記事を載せたものが多数あるが、この道路の写真を載せたものもあり、1948(昭和23)年9月27日に米軍戦略爆撃調査団が撮影した写真が掲載されたのもある。 今回の現地見学の前に大久保さんから米軍の調査団の写真のコピーをいただいた。この写真は数枚あり、その1枚は米軍滑走路にネガ上で白抜きしたものもある(右図)。

 この図は薄くみえる滑走路とは別の滑走路である。現地に行ってみると、道路の左右にはコンクリートの上に民家や庭にある家が多く見られる。コンクリートの両脇には側溝があり、蓋も残っている部分のあった。

(平山良氏のブログによると幅59cm、長さ300cm、厚さ20cm、同ブログのアドレスはhttp://blogs.yahoo.co.jp/ryouhei19371213/11829324.html)

 この滑走路は、1944年12月から始まった拡張工事でつくられた滑走路である。この工事には、勤労奉仕出動は近隣の住民が駆り出され、上野町(現東海市)の寺中集落では45年2月末までに、男子・女子・子どもを合わせ428人に達した(『東海市史・通史編』)。また、ニュース第3 号でも紹介したように、刈谷町での拡張工事勤労奉仕団が第1区内だけで115名が、12月5日から24日まで動員されていた。 強制連行された中国人480 人が、地崎組大府出張所へ転出するため北海道を出発したのが11 月30日であった。

 この第2期拡張工事は、長さ1300m、幅30m、コンクリートの厚さ20cm (平山氏、同前)である。この分厚いコンクリートは、通常の飛行機ではなく、日本で初めて製作された海軍のロケット戦闘機・秋水のためだったとも言われている。

秋水は、ドイツのメッサーシュミットMe163Bロケット戦闘機の設計図をもとに、三菱重工業が製作したもので、過酸化水素ヒドラジン、過マンガン酸を推進剤としていた。 海軍ではJ8M (キ200) と呼んでいたが、1944年 7月に設計図が米海軍にバシー海峡で沈められ、日本に到着したのは設計図の一部のみであった。1945年7月7日に試験飛行をおこなったが、途中でエンジンが停止し、テストパイロットは重傷を負った。常滑市民俗資料館には、過酸化水素水溶液をいれる高さ186cmの「ロ号大甕」が展示されている。

 要するに大府飛行場は、2本の滑走路があり、幅72mの滑走路と未完成の幅30mの滑走路があったのである。現在の地図に入れると左図のようになる。多くのウェブサイトの記事は間違っているか、混同している。

 三菱が作った「飛龍」は古い滑走路を使っていたのであり、戦後、中日新聞社航空部が使っていた滑走路は「かつて大府飛行場の一角をならしただけで、長さ420mほどしかなかった。ラバウル基地よりひどいといわれた」 (『あいちの航空史』)とあるので、古い滑走路だと考えられる(450mという記事もある、山田直行「花形の軍用機産業」『知多半島の歴史』下) 。

 中国人が建設に参加させられたコンクリートの滑走路図の左側のもので、「新道才」 交差点のすぐ北側から始まり、「ミニストップ」のところまでが、第2期拡張工事の滑走路と考えられる。私も、もとの滑走路の北側の部分に中国人遺族をお連れしたのであるが、多分、宋学毎さんが亡くなったダイナマイト爆発も図の左側の滑走路のどこかでおこったのであろう。現在は、滑走路は道路になり、両側は民家が立ち並んである。大府飛行場の滑走路には、まだ調査が必要だと思う。

     (掲載されている図・写真は省いています)