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天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(12)

 遺骨の扱いについて国民党政府は、どのような方針をとっていたのでしょうか。

 天津市の大事記には、「1945年(中華民國34年)  10月11日 國民黨天津市政府接到第11戰區司令部天津代表辦事處的指令,根據天津地區『日本官兵善後聯絡部』的通知,中國勞工31601名,將由日本陸續回國,『請予接待安置』。為此市政府責令警察局辦理,並於17日成立『回國勞工管理處』。10月18日,首批由日回國華工1661人到津。截至1946年4月3日,先後從日本回國的華工共20批,31601人,其中66人已為盲人,同時帶回華工遺骨1561具」とあります。

 中国人労工31601名が日本から次々に帰国するため、国民党天津市政府は帰国労工管理処を設立した。10月18日に最初の1661名が到着、以後、1946年4月3日まで合わせて20回、31601名が帰国。66名が失明しており、労工は、帰国に際し、1561名の遺骨を持ち帰った―という内容です。

このときの遺骨は、天津西青区に埋葬され、日本で死亡した労工の名前を刻んだ碑もつくられました。その碑が2000年に発見されました。

天津日報2000年07月17日は、次のように報じています。

 <近日、天津西青区の農民は抗日戦争期の一つの墓碑を発見した。碑には"日本で死亡した捕虜労工の墓"という文字が刻まれている。具体的な情況は調査中だ。7月13日午前、西青区中北鎮大稍直口村華安里3号門の住民が自宅の水道管を修理しているときに、道路の下から石碑の一部が出てきて、それを掘り出した。この碑は大理石でできており、長さ1.3メートル、幅0.57メートル、厚さ0.12メートルである。中北斜派出所の人民警察の助けで、きちんと掘り出され、「在日死亡戦争俘虜労工の墓」という文字があり、碑にはこう書かれていた:"抗日戦争の作戦で捕虜となった軍と将兵および人民が日本軍に連行され、北海道などで労役に数万人が服した。機構は不良で、待遇は劣悪だった。そのため命を落としたものは数千人を超し、勝利し生還したものは約3万人である。市政府の命令で本局は労工招待管理処を組織し、生還者を慰安し、親族で遺骨を受け取るものを除く遺骨が1千5百あまりあり…"と書かれている。そして碑の両側に約3百数名の中国労工の名前が記載されている。

 近くの住民の紹介によると、以前はここではかつて類似する墓碑が発見されているが、なお序言に1500数名の死者とあることから、未発掘の碑があるかもしれない。現地の住民の話では、石碑が出てきたところは元は湿地で、よそから土を運んできて埋め立てられた。

 現在、このことはすでに西青区文化局に連絡が行っており、関係専門家のさらなる鑑定が待たれる。>