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天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(8)

 天津在日殉難烈士紀念館に保管されている大府5名・平岸8名の遺骨およびそれ以外の伊屯武華の10名・下関で亡くなった6名の遺骨の所在と、西本願寺幌別院の納骨堂に保管されている遺骨との関連も考察する必要があります。

 同別院には、地崎組が預けた朝鮮人・中国人の遺骨があります。100人余の遺骨で、三つの壺に入っています。別院が作成した遺骨の預かり・保管記録である「朝鮮人労務者殉難者名簿」「土建関係綴 昭和28年6月 納骨部」「地崎組・新川組納骨控(昭和19年度 法務部)」「遺骨遺留品整理簿 昭和44年7月11日 本願寺幌別院」という4種類の綴りがありますので、そこに記された名前が、遺骨の主であると考えられています(ただし、合葬されていますので、骨片の一つ一つがだれのものとはいえない状態になっています)。

 地崎組石門・済南隊で亡くなった人の名前が記されているのは、伊屯武華出張所で死亡した李成・鄗書建・王洪三・宋紀憎・謝運興・闞照禄、平岸出張所で死亡した謝志成・馬蘭祥・解霊山・陳正朝・揚井児・雪山・張照夫・劉樹鎮の14名です。各綴りは、昭和28年は第2次遺骨送還がありましたので、その時、中国側に返されたかどうかを知ることができそうです。

〔伊屯武華出張所〕 

○昭和19年度の「地崎組・新川組納骨控」に記載されている中国人名

なし

○昭和28年6月の「土建関係綴」に記載されている中国人名

李成・鄗書建・王洪三・宋紀憎・謝運興・闞照禄

○昭和44年7月11日の「遺骨遺留品整理簿」に記載されている中国人名

李成・鄗書建・王洪三・宋紀憎・謝運興・闞照禄

 昭和19年度の「地崎組・新川組納骨控」には名前がなく、昭和28年6月作成の「土建関係綴」に名前がでています。同綴りには「中国人遺骨(法城寺=東川=分)八十八体及(浄光寺=平岸=分)五体計九十三体ヲ昭和二十八年六月二十五日地崎組ヨリ一時保管セリ(地崎組ヨリ一時保管九十三体ノ名簿ハ昭和二十八年七月三日東別院教務所ヘ提出セリ)」という注があることから、6人の遺骨が第2次送還の準備の過程で別院に預けられたからと考えられます。ところが、昭和44年時点でも名簿に記載されているのは、なぜでしょうか。消し忘れか、実際には中国に送還されなかったのか―ということです。

 天津在日殉難烈士紀念館には、遺骨箱はありませんでしたので、昭和44年の名簿に名前が残っていることと合致します。そうだとすると、第2次送還の準備過程はどういうものだったのかという疑問がわいてきます。

 

〔地崎組平岸出張所〕

○昭和19年度の「地崎組・新川組納骨控」に記載されている中国人名

謝志成・馬蘭祥・解霊山・陳正朝・揚井児・雪山・張照夫・劉樹鎮

*「昭和二十一年五月六日 地崎組平岸出張所保管 広岡 華人計八名 但シ三個

トシテ請取証出セリ 右内譯 一一六謝志成、一一七馬蘭祥、一一八解霊山、一一

九陳正朝、一二〇揚井児、一二一雪山、一二二張照夫、一二三劉樹鎮 右ハ骨堂正

面ニ安置ス」の記載あり

○昭和28年6月の「土建関係綴」

謝志成・馬蘭祥・解霊山・陳正朝・揚井児・雪山・張照夫・劉樹鎮

○昭和44年7月11日の「遺骨遺留品整理簿」

なし

 この人たちは、中国人同士の争いで殺害された人たちです。日本の警察は、中国隊の抵抗で、遺体の回収や現場検証はできず、中国隊の隊長から調書をとっただけでした。そして中国隊が帰国したあと、井戸や畑から7名の遺体を掘り出し、死体の検案をしましたが、残る1名の遺体は、未発見のままでした。別院の綴りでは区別せず8名の遺骨が納骨されたとしています。遺骨を受け取った中国側では、8名のうち陳正朝氏の遺骨は不明として扱われています。ただし、死体検案では、7名の遺体がそれぞれだれであるかということまでは特定できず、氏名・年齢不詳となっています。したがって遺族との関係でみると、「8名のうち陳正朝氏の遺骨は不明」とすることも適切とはいえないでしょう。