天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(6)

     遺骨安置室を見ているうちに、他とはちょっと違う遺骨箱に気づきました。他の箱より大きなもので、「遺骨(残骨分) 地崎組東川事業所」と書かれていました。

  「遺骨残骨分」というのは、どういうものでしょうか。

  「第1次~第8次 中国人殉難者遺骨送還状況―ポツダム宣言受諾と強制連行事件」(1960年10月中国人殉難者名簿共同作成実行委員会)という報告書には、地崎東川の遺骨収集・送還について次のように書かれています。

  <「北海道慰霊実行委により東川村法城寺安置の遺骨若干柱を八八柱に分割して第二次(1953年)に送還した」が、「そののち現地にて五柱の遺骨並びに残骨が発見され、北海道慰霊実行委により収骨され送還(1957年の第7次)した」>

   第二次送還後の再調査で発見された「残骨」というのがこの箱の内容物ということになるのでしょう。

   理解しがたいのは、「法城寺安置の遺骨若干柱を八八柱に分割して」地崎東川出張所の全殉難者の遺骨として送還したという点です。なぜ若干の人数分の遺骨しかないのに88人全員の分としたのでしょうか。これでは、まだ見つかっていない遺骨を探すことを打ち切る宣言をしたことになります。

   東川では、直後に疑問が出され、中国人墓地の発掘がおこなわれました。そのとき出てきた5人分の遺骨は、第7次送還で中国に届けられました。実行委員会の報告書に「五柱の遺骨並びに残骨が発見され」と書かれているところからみて、そのとき拾い集められた骨片がこの遺骨箱に納められたのでしょう。

   東川の場合、第2次では「若干柱」、第7次では「5柱と残骨」ですので、はっきりしているのは<5人以上>の遺骨が送還されたということです。