天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(4)

 紀念館では赤い布に包まれた遺骨箱も見ました。「その遺族は、毎年お参りに来ています。去年も来ました」。整理番号013、「呂百歳」と書かれています。ほかにも名前を書いたオレンジ色のカードがボックスに貼られています。お参りに来る遺族が目印にしているそうです。

 

 呂百歳さんの遺族・呂満云さんは、2006年8月18日の殉難労工紀念館開館記念式典で次のように話しています。

 「前世紀日本の侵略戦争後期、日本国内の著しい労働力不足を補うため、4万人近い中国人がさらわれ、日本で苦役をさせられました。わずか2年のうちに6830人が命を奪われました。私の父、呂百歳もそのなかの一人です。村長をしていた父は、体は丈夫でした。捕まったときは37歳で、花岡に連行されました。

 父の労働で家族は生活していましたが、父が引っ張っていかれた後は、大黒柱を失って、祖父は1日中憂鬱で、祖母は悲嘆にくれ、母は私達5人の子供を連れて、親戚や友人を頼っての、苦労の日々でした。祖母は、息子が早く無事に家に帰ってくるよう毎日祈りましたが、しかし来たのは日本で無残にも亡くなった父の訃報でした。消息を聞いて、祖母と母は泣きくれて地に倒れ、祖父は悲しみのあまり死を願い、次々に病気で寝こんで亡くなりました。4人の兄は貧困のため、病気と空腹で相前後して亡くなりました。誰がわが家の8人の命を奪ったのですか?! 誰が我が家を崩壊させたのですか?! すべて日本軍国主義がひきおこしたのです! 

 私の家はこのような目にあいましたが、これは日本軍国主義の犯罪の1つの側面、1つの縮図で、私の家と同じような境遇にあった家庭は、数えることができません。私達は歴史をしっかりと心に刻み、一家の仇を忘れず、日本政府に正義と説明を求めます。日本政府は歴史を直視しなければなりません。事実に向き合い、謝罪し、賠償し、ただそのようにしてやっと本当の中日友好を実現することができます。私達は、対日戦後賠償請求訴訟に勝利するまでたたかい続けます」