溏沽万人坑を訪ねて(8)

 塘沽港は、元は内陸部にありましたが、老朽化していたため、日本は新港を建設することにしました。 1938年、日本の内務省は河北沿海地区を調査し、39年5月に興亜院が“北支那新港計画案”を策定、40年に工事が開始されました。石家荘の南兵営や済南の新華院など中国各地の収容所から送られてきた中国人は、いったん「塘沽労工収容所」に収容され、日本に向かう貨物船に乗せられました。

 

 天津塘沽港務局の報告書は、次のように報告しています。

 1955年、政府は民間科に"万人坑"の道路寄りの遺骨を移すように命じた。この作業に従事した労働者は、人の背丈の半分も掘らないで、"取りきれない"ほどたくさんの骨が出てきた。頭皮のある頭蓋骨もあったし、長らく水に浸かっていて骨だけでなく、肉と皮も残っている死の直後のままの遺体もあったと述べている。出てきた遺骨は、袋に詰めて塘沽の第2共同墓地に送ったというが、その量は300数袋だったという人もいれば、100数袋という人もあり、一致してない。この1955年の移動以外に遺骨が掘られたことはなく、まだたくさんの遺骨があると見られるが、具体的な数字は調べられていない。

 

 先に紹介した当時少年工だった左文治さんは、「万人坑は実際には鉄道を建設した後にできた。集中営に近く、日本軍が死体を集中的に埋葬し、万人坑ができた。毎日のように日本兵が馬車で死人を運んできた。多い時は10数人、少ないときでも5、6人、ござで巻いて、穴の中に投げ捨てた。そして上から黄土をかぶせて事をすませた」と語っています。