相模湖の中国人強制連行(18)

 中国人らが日本の投降を知ってからは、公然とした闘争をおこなうようになりました。労工を組織して松本市の中心街をデモ行進し、日本政府の残虐さを糾弾しました。さらに「中国人の中の腐敗分子を清算した」と、朱文斌はいいます。

 「隊長の馬盤根(河南人)、班長の范玉水(安徽人)を処罰し、2つの翻訳官を追い払った。3メートル余りの板塀を押し倒し、警察所を壊し、病棟を焼き払った。2人の日本人を殴ってけがを負わせた」

   

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 写真は、相模湖の中国人宿舎前で撮影されたもので、左端が馬副隊長といいます。朱文斌は、「処罰」したと言っていますが、「相模湖(ダム)の歴史を記録する会」の人たちは、「馬を殺した」と証言した強制連行被害者もいると言います。死亡診断書に記載された死亡理由は「胃腸カタル」で、熊谷組の就労顛末報告書でも事件としてあつかわれていません。

 中国労工隊の隊長・副隊長は、北京と済南の俘虜収容所で、日本に送られる隊員のなかから任命されています。日本側の後ろ盾をえて、隊員を暴力で統制していました。また、労働をすることはなく、食事も一般の労工とは格差があったようです。そうしたことから一般隊員の恨みが、日本の敗戦後に彼らにたいする報復という形で向かったとのでしょう。(ただ、解放を勝ち取りつつある段階でそこまでしなくても、と思います)