相模湖の中国人強制連行(1)

 「我叫朱文斌, 生于1917年, 原籍山东省临淄县毛家屯村」(私は朱文斌といいます。1917年の生まれで、原籍は山東省臨淄県毛家屯村です)と名乗るのは、1944年、第二次世界大戦の末期に神奈川県の相模湖建設に強制連行された被害者です。(『二戦掳日中国労工口述史』)

 「我于12月6日, 跑到垦利县廿村村东荒滩约五六公里处,被日本兵抓住, 当时同我先后被抓的有4人。为不暴露真实身份, 登记造册时都已改名换姓。我的原名朱文斌, 被抓后改名朱喜文」(私は12月6日に、墾利県廿村東の荒れた河岸の約5,6キロメートルの所まで走って、日本兵に捉えられた。その時、私と相前後して4人が捕まった。真実の身分を暴露しないため、登録のとき名前を変えた。私の元の名前は朱文斌で、捕まった後に朱喜文と改名した)と名前を変えた時の事情を明かします。

 『資料中国人強制連行の記録』の「連行された中国人の名簿」熊谷組與瀬作業所の60番に「朱喜文 二六 山東省莱陽五区?家荘」とあります。朱文斌は、1917年生まれといっていますので、捕まった時の年齢は26、27歳ですから名簿と一致しています。出身地「莱陽」は、山東半島の中央部に位置する市ですが、「临淄县」は青島市と済南市の中間ですから、名簿と本人証言は一致しません。名簿をつくるとき名前を変えただけでなく、出身地も変えたと思われますが、存在しない地名をあげたのではなく、近くの地名をあげたのでしょう。一緒に捕まった朱太山(與瀬作業所57番)は「临淄五区」となっていますから、あるいは「莱陽五区」といっても同じ地域になるのかもしれません。