地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(14)

 1953年の第2次遺骨送還では、地崎組東川の88柱が送還され、東川出張所の全殉難者は送還済みとされましたが、1954年に「発掘と遺骨処理に不審の点ありとの有力な証言」が出され、北海道実行委員会が再度発掘作業をおこなわれました。その結果、同一墓地から5体が発見され、第2次送還の東川の遺骨が虚偽であったことがあきらかになり、地崎組は中国側にわび状を提出。7次送還で新たに発見された5柱を中国に届けました。しかし、第2次送還で送られた遺骨のうち何体が正しかったかという検証が行われた記録はありません。

 「死亡者八十八名中十名ハ水葬残リ七十八名ハ火葬トシ遺骨ノ内第二中隊長王東昌ノ分ハ隊付書記楊霊光ガ平素懇意ノ故ヲ以テ遺骨及弔慰金(三五〇円)稼働賃金精算額(四七六円一三)合計金八百二十六円十三銭共捧持帰国方申出タルニ付弔慰金並ニ稼働賃金精算額ニツキテハ日本政府ヲ通ジ支那政府経由遺族ニ贈呈スベキ旨交渉セルモ肯セズ且遺族ニハ一千円を支給スベキ旨強硬ニ主張シタル為要求通遺骨並ニ金一千円ヲ手交セリ」としています。残りの東川村最照寺xiiiに安置してある遺骨を隊員が帰国する際、「捧持送還方交渉セルモ拒否セラレタル為其筋トモ協議ノ上官憲ノ指示ヲ得タル上善処ナス方針ニテ現ニ遺骨ハ前記最照寺ニ安置シ弔慰金及稼働賃金精算額ハ本社ニ保管中」であることを明らかにしています。

 西本願寺幌別院にある「土建関係綴」には、孫小信・李老・陳元培・温天義・李興運の5名の名前があり、備考欄に「返済済」「(崔炳学 昭19・6・28 36才 知学道)ト書イタ空箱ニ五ケ在中セリ」と記されています。

 西本願寺別院は、この5人の「華工遺骨預り証」を1944年12月23日付で地崎組にあてて作成しています。1944年10月16日から11月13日までに大阪港愛病院で死亡した5名の遺骨を預かったという記録です。

 これについて北海道の朝鮮人強制連行研究者・白戸仁康氏は、「(1953年6月22日の)調査日当日、東川中国人の遺骨を引き取った地崎組の担当者が、84~88番の名前を朝鮮人と見なして、『送還済みなので、保存の必要はない』と指示し、別院側で『保存』を抹消させられた可能性がある」という見方を提示しています。「崔炳学」と書いた空き箱に入っていたということが根拠とされたのでしょう。ただ、別院には、預かり証や古い遺骨簿があるので、それらの確認はしているでしょうから、「可能性がある」という指摘にとどまります。