地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(13)

〔東川出張所〕

○昭和19年度の「地崎組・新川組納骨控」に記載されている中国人名

孫小信、李老、陳元培、温天義、李興運

*「孫小信、李老、陳元培、温天義、李興運 右五柱昭和十九年十二月二十三日領

ル 柴田整理ズミ 28.6.22 渡済」の2行が棒線で消されている

*孫小信、李老、陳元培、温天義、李興運5名分の「昭和十九年十二月二十三日」

日付の「華人遺骨預リ證」がある。綴りの次ページに「五体は、現場に安置(「の

為」の2文字削除)返す為 受領す」の但し書きがある。

○昭和28年6月の「土建関係綴」に記載されている中国人名

孫小信、李老、陳元培、温天義、李興運

*返済済(崔炳学、昭19.6.28、36才 釈学道)ト書イタ空箱ニ五ケ在中セリ)

と備考欄にある

○昭和44年7月11日の「遺骨遺留品整理簿」

なし

 「中国人殉難者名簿」では、この5名の死亡場所と病因は次のようになっています。

○孫小信 河南省汝南県 1944年10月14日 急性気管支炎 大阪港愛病院で死亡

○李老河南省商城県 1944年10月16日 腹水並急性心臓衰弱 大阪港愛病院で死亡

○陳元培 河南省鹿武県 1944年10月17日 急性心臓衰弱症 大阪港愛病院で死亡

○温天義 河南省宝来県 1944年10月21日 衝心性脚気 大阪港愛病院で死亡

○李興運 河北省正定県 1944年11月13日 慢性腎炎性ネフローゼ 大阪港愛病院で死亡

 地崎組は華北労工協会と300名の供出で契約を結び、297名を乗船させ1944年9月14日塘沽を出港、大阪港に入港したのは9月25日で、上陸までに16名死亡しています。「華人労務者就労顛末報告書」は、「七月(9月の誤り)十四日十三時塘沽出帆途中炭水補給ノ為メ大連ニ寄港九月十七日同港抜錨後大阪港着迄ノ航海」で、「船中ニ於ケル死亡者中遺骸の処置ヲ上陸迄遷延シ難キ分十体」を東経128度55分北緯34度20分のところで水葬をおこなったと記しています。この水葬をおこなった海域は、釜山の少し南の所です。塘沽―大連間での死亡はなく、大連を出港した17日から21日までの間に死亡した10名が水葬に付されたということになります。水葬後も死亡者が続き、大阪港に入港するまでに8名が死亡しています。その一人である李耀の場合、「死体検案書」によれば、大阪港入港翌日の26日午後1時30分に「大阪港第二区碇泊汽船第七寿丸内」で死亡しています。元村彰医師が検死し、大阪港水上警察署に届けられています。東川に移動させることは困難とされた重病患者16名については、「大阪市港区港愛病院ニ入院セシメ(付添トシテ華労五名を残留セシム)又船中ニ於ケル死亡者六名ノ火葬手続キナドヲ完了」とのべています。8名と6名の差は不明です。

 「地崎組・新川組納骨控」に記載されている孫小信、李老、陳元培、温天義、李興運の5名は、大阪港愛病院で死亡した人たちで、遺骨が西本願寺幌別院に送り届けられたことを証明しています。