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地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(8)

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 ところで、石門・済南隊は、何人分の遺骨を祖国に持ち帰ったのでしょうか。手掛かりになりそうなのが、地崎組伊屯武華・置戸・大府・平岸出張所の「華人就労顛末報告書」に添付された写真です。

 12枚の写真が添付されており、そのうちの3枚は葬儀関係。祭壇が設けられ、数百人が追悼している写真には、祭壇の前に並べられた椅子に6、70人くらいが座り、周りには数百人が立っています。座っている人の中には帽子を手に持っており、おそらく日本人でしょう。

 上の写真は、祭壇に遺骨箱と位牌が並べられていますが、戒名を読み取ることはできません。『資料 中国人強制連行』に収載されている「中国人強制連行事件に関する報告書 第一篇 中国人殉難者名簿」は、「敗戦直後十四柱の遺骨をまつった慰霊祭の写真」に言及していますが、おそらくこれと同じ写真でしょう。「敗戦直後十四柱の遺骨をまつった慰霊祭の写真と、北海道実委の調査により、中央慰霊祭実委は、少なくとも遺骨の一部は生存者集団送還時送還されたものと推定する」と中央慰霊実行委員会のコメントがあります。さらに、「この慰霊祭には、李成、干長徳がまつられていないことから、昭和二十年(一九四五年)八月十五日より同九月十八日(李成の死亡日)迄の間に行われたものと想像する」とのべています。

 これは、李成氏の死亡日(1944年9月18日)、干長徳氏の死亡日(1944年9月30日)=死亡診断書=を1年取り違えたもので、成立しません。石門・済南隊が伊屯武華の後、置戸・大府・平岸と移動させられ、1年半で31人が亡くなったことが頭に入っていなかったのでしょうか。

 この3枚以外は、中国人の集合写真です。背後に、双十節の飾り門が写っています。隊員の服装も帰る際に与えられた新しいものであり、ほぼ同時に撮影されたものと見ることができます。彼らを乗せた船が室蘭を出航したのが10月20日であり、10月10日前後に撮影したものでしょう。中国人生存者は、まつられた14人の遺骨を祖国に持ち帰ったことでしょう。

 では、中国人が帰国する際に祖国に持ち帰った14人の遺骨は特定できるでしょうか。

 ①大府の5名については、石門・済南隊が北海道に移動するときに西本願寺幌別院と平岸の浄光寺に4体持っていったこと、宋学海氏の遺骨は遺族に届けられていることから、帰国の際に持ち帰った可能性は高い

 ②平岸では、中国人同士の争いによる死者8名は中国隊帰国後掘り出されているので除外される。病気及び自殺の2名は可能性がある

 ③伊屯武華では、西本願寺幌別院の遺骨預かり・保管記録(中国隊帰国後作成)に記載された6名を除いた4名も持ち帰った可能性がある

 ①~③で可能性があるのは11人分になるので、

 ④船中及び下関で亡くなった6名のうちの3名――ということになりそうです。④は、死亡時期により1944年3月26日~3月30日に死亡した3人と、4月29日~6月9日に死亡した3人に分けることができる。前者3名は、地崎組の職員が入院その他の手続きのため下関にしばらく残留しているので、火葬し、遺骨を留辺蘂に運んだと想定することは可能。これは楊貴発氏がおいの遺骨をずっと持っていて、祖国に持ち帰ったという証言と合致する。後者の3名の遺骨は、下関の病院から地崎組に死亡連絡がいったのに、地崎組が引き取りに行かず、無縁墓地に埋められたのではないかという疑惑がある。

 これらを検討する諸資料を集めなければなりません。