地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(7)

 大府で亡くなった5名は、東海市上名和の火葬場で火葬され、遺骨は東海市冨木島の玄猷寺に一時安置されました。石門済南隊は1945年6月、大府から北海道赤平町平岸に移動する際、5名の遺骨を持って行きました。GHQ/SCAP(連合国総司令部)資料の中に、地崎組の引率責任者が本店などに打った電報があり、そのなかで「遺骨5各隊持参」という文言があります。

 25日6時40分の地崎組労務次長あて荒金係長電は次のように打たれています。

 「××ユソウノカンケイニテアオモリジョウセンヨリダイヤヘンコウス 一タイ二七ヒ一ジ三〇フンアオモリハツ六ジ三〇フンハコダテハツ一九ジ五〇フンタキカワチャク二〇ジ四八フンヒラギシツク ヤショクノテハイタノム アサベンオサマンベヒルオタルヨルタキカワ サイド キチヨリカクニンタノム 二タイ三タイトモニオナジ イコツ五カクタイジサンシサッポロニ…(以下3枚目と4枚目が重なり判読できず)」

 〔××輸送の関係にて青森乗船よりダイヤ変更す。一隊27日1時30分青森発 6時30分函館発 19時50分滝川着 20時48分平岸着く。夜食の手配頼む。朝弁長万部昼小樽夜滝川。再度、貴地より確認頼む。二隊三隊ともに同じ。遺骨5各隊持参し札幌に…〕

変更になった列車の便と各駅への到着時刻、弁当の手配を指示した電報ですが、遺骨持参に触れているのは、お寺に預ける手配の確認ということだったのではないでしょうか。

 石門・済南隊が運んだ遺骨は、4体は赤平の浄光寺に、1体は札幌西別院に預けられました。なぜ、同じお寺に預けられなかったのか、その理由を明らかにする記録は見つかっていません。ただ、北海道内での移動は、鉄道事情により、札幌経由平岸行きと、札幌を経由せず室蘭回りで平岸行きと、隊によって経路がことなりました。それで札幌経由の隊は、地崎組の菩提寺である西本願寺に引き渡し、札幌を経由しなかった隊は、平岸まで持って行った可能性は、検討する必要があります。