地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(3)

 石門隊・済南隊で船中および下関市で亡くなったのは

○楊藏児 18 河北省定県 1944年3月26日 船中(青島~下関)、死因不明、死亡診断書なし

○赤開弟 28 河北省定県 1944年3月28日 下関高須病院で死亡、急性肺炎

○劉成章 22 河北省安平県 1944年3月30日 下関高須病院で死亡、急性肺炎

○李貴祥 23 河北省定県 1944年4月29日 下関高須病院で死亡、右大腿部降腐織炎

○李運明 20 河北省重県 1944年5月6日 下関高須病院で死亡、肝臓炎兼肺結核

○李海奮 25 河北省河間県 1944年6月9日 下関高須病院で死亡、大腸炎

の6名です。

 地崎組「華人労務者就労顛末報告書」は、日本への連行時の状況について「健康状態概シテ不良船中ニ於テ一名ノ死亡者ヲ出シタルモ上陸後処定の手続キヲ取リ火葬ニ付セリ」と述べています。

 大府の強制連行被害者・楊貴発氏(2010年3月の訪中調査団の訪問直前に亡くなった)の遺族は、「(石門隊が青島に着いた後)父の甥は青島の学校に監禁され、鉄条網を乗り越えようとして殺されました。その甥は私の父よりも何歳か年上でした。死んだ後に日本人が彼の遺体を焼き、私の父が遺骨を受け取り、日本へ持って行き」、日本でもずっと持っていて、帰国する時に持ち帰ったと語りました。

 面談の終わりに遺族から「去日受害“労工”材料(日本で“労働者”として受けた被害の資料)」という文書をみせてもらいました。記録者名は書かれていませんが、2003年6月に楊貴発氏の口述をもとに作成されたものですが、それにとどまらず、楊貴発氏の住む西南佐村から日本に連行された9人の名前とプロフィール、家族構成、連絡先まで書いてあります。このなかで、「苦難を共にしたわが村の郝凱弟、楊脏尔(日本の漢字では、楊藏爾)は日本人にひどい扱いを受け苦しんで異郷の地でなくなった」と語っていて、かっこ書きで「火葬した骨灰は楊貴発同志が保管し、帰国して遺族に渡した」という注が付いています。青島で殺害されたという遺族の証言とは異なります。楊藏児氏の親戚である楊印山氏は、船中で横たわっている楊藏児氏にご飯をたべさせたとして、青島で殺されたという証言を否定しています。

 楊藏児氏が死亡した日時を地崎組報告書が正しく書いていれば、下関に上陸した日の死亡です。乗船していた医師もしくは下関の指定された医師による検死があったはずです。また、水上警察署へ届け出をしたのち、火葬手続きがとられたはずですが、不明です。

 揚藏児氏以外の5名は、列車での北海道までの輸送に耐えないと判断されて、下関に残され死亡したと考えられます。地崎組「報告書」は、「上陸後下関ニ於テ重症患者五名ヲ同市高須病院ニ入院治療セシメタルモ何レモ遂ニ死亡スルニ至リ夫々同市ニ於テ手続ヲ取リ処置セリ」と述べています。この書き方からは、6月9日に死亡した李海奮まで6名全員を下関で火葬したように読めますが、実際はどうだったのでしょうか。火葬許可証も見つかっていませんし、地崎内部のこれに関する記録も見つかっていません。