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地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(2)

 劉宝辰河北大学教授(肩書は当時)の調査で王明文、宋学海、張玉柱の3名に関する情報が得られました。

○張玉柱について分かったこと

 日本軍がその地を占領した際、近くの大王鎮で張玉柱が日本軍に連れて行かれるのを見た者がおり、どこに連れて行かれたのか家族は知らなかったが、それ以降、玉柱から二度と連絡はなかったとのことであった。当時、玉柱の家は貧しく、父親の張化祥が東北に仕事を探しに行ったきり帰って来ず、生死も不明であった。玉柱の父親が出て行ってからは更に生活が苦しくなり、玉柱は仕事を探すために母親のもとを離れたきり二度と戻らなかった。彼の母親は乞食となって生き延びていたという。家を離れた時、玉柱が未婚であったため、今に至っても子孫はいない。

○王明文について分かったこと

 臨清市に行き、地元政府の関係部署に尋ねたところ「崖明荘」や「滄明荘」なる村名はなく、「崖」「催」「滄」がつく村々を訪ねたが何も収穫はなかった。

宋学海氏について分かったこと

 威県で捕まって大府に連れて行かれた者は多く、全部で16人であった。そこで私(劉)はこの16人全員に尋ねれば、あるいはその中に宋学海の遺骨をどこに持っていったか知っている者がいるかも知れず、あるいはまだ健在者がいるかも知れないと思い、そこから遺族を探すことにした。当該県政府の協力を求め、名簿上に記載された16人が所在する村の名称を一つずつ確認調査したところ、村名が正確であったものは5つだけであった。先にそれらの村の村長に電話で連結し、労務者がいたかどうかを尋ねてから遺族と面会して話をすることにした。面談の中で一人の労務者が健在であることを知った。今年89歳になる17番の許東民である。彼は、宋学海が名古屋で土石が落ちてきて死んだことを話してくれた。小山のような土石の上で発破をかけて硬い土石を爆破するので、土石の上にいた者が下にいた者に逃げろと大声で叫んだが、たぶん宋学海には聞こえず、その中に埋もれて亡くなったのだろうということであった。帰国する際には(石門隊の)上層部が苦難を共にした仲間の遺骨を持ち帰り、それぞれの家族に届けるよう決めたとのことであった。数名の威県の者が責任を持って宋学海の遺骨を持ち帰って県政府に到着報告しに行った際、政府の者から何を持っているのか尋ねられたので、宋学海の遺骨だと返答したら県政府の者がそれ受け取ったとのことだった。家に戻った後はそれぞれ宋学海の家に手紙を出し、それで彼の家族が県政府から遺骨を受け取って葬儀を行ったとのことであった。

宋学海の弟・宋殿挙は、1945年末に中国に戻った宋振海と同じ県の同郷の者7名が日本から(遺骨の入った箱を)持ち帰り、県政府に預けられ、後に家族に連絡が入って取りに行った。宋振海の父親に手紙を出した人が『宋振海は日本が降伏した年、仕事中に大きな土石が落ちてきて亡くなった。村民たちが宋振海の遺骨のために厳粛な葬式を行い、県政府は彼の家に500元の葬儀料を支給し、宋振海を烈士に認定した』と話してくれた。

 劉氏は、リポートの最後に「他の2名については具体的な村名の記録がなく、あまりにも調査に時間がかかる」と述べています。