花岡鉱山七ツ館事件70年

  しんぶん赤旗が「花岡鉱山七ツ館事件70年」と題する茶谷十六氏の記事を掲載した(2014526日付)。

              花岡鉱山七ツ館事件70  茶谷十六

  1944529日、秋田県の花岡鉱山七ツ館坑で大陥没事故が起きた。この事故で朝鮮人11人、日本人11人が犠牲となった。七ツ館事件である。

  花岡鉱山は当時、日本有数の銅鉱山であった。もともと株式会社藤田組(後の同和鉱業)の経営であったが、戦争の進展にともない、その軍事的役割の大きさに鑑みて国策会社・帝国鉱業開発株式会社の経営下におかれ、軍需省の直轄の下で増産が督励されていた。

  七ツ館事件は、激烈化した戦時下とはいえ、増産優先と安全無視の生産体制が生み出したまぎれもない人災であった。しかも、犠牲者の半数を占める11人の朝鮮人は、当時日本の植民地支配下にあった朝鮮から強制的に連行されてきた人たちであった。

  戦後、犠牲者を追悼する「七ツ館弔魂碑」が建立されたが、朝鮮人については、「創改名」によって強制された日本式の氏名がそのまま刻まれた。

  近年、日韓両国の研究者と韓国の政府機関の協力によって、七ツ館事件犠牲者の実名と経歴が明らかとなり、数名の遺族の存在も確認された。

 

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事件から10年をへた551月、同和鉱業花岡鉱業所から提出された「七ツ館坑陥没災害報告書」が外務省に保管されている。報告書には事件の経過が詳細に記録されており、事故後、人命救助よりも坑道の保全と生産維持のために「遭難者は殉職せるものとして救助作業を中止」し、「陥没地帯の埋立てに重点を置いた」ことが生々しく記されている。

  「七ツ館災害当時坑道図及び罹災者位置想像図」には、殉難者22人の位置が詳細に図示されている。さらに、「殉難者遺体引揚げ作業状況」として、5412月の時点で坑道の埋め立て作業とボーリング調査が終了し、555月頃よりは、「遺体が順次引揚げ出来るのではないかと思われる」とも記されている。

  以後、同和鉱業によって七ツ館坑の採掘が露天掘りによって再開されたが、遺体の収容や遺骨の発掘はついに行われなかった。

 

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傷痕はまだ癒やされていないこれが痛切な実感である

  529、韓国から殉難者の遺族を招き、日本人遺族と共に追悼会をするほか、日韓の研究者によるシンポジウム「七ツ館事件を問う意味と日・韓・朝の平和友好」を開催する。もっとも不幸な時代に起きた、の不幸な事件を風化させることなく、後世に語り継ぐとこそ、真の友好・親善を打ち立てる道であると信じている。

  (ちゃだに・じゅうろく花岡鉱山七ツ館事件70周年実行委員会代表)

 

追悼会 29日午後1時、大館市花岡町信正寺。シンポジウム同2時、花岡公民館。