宮浦坑で働かされた劉千さんの日本での法廷証言(2)

福岡県の宮浦坑に連行された劉千さんの法廷証言のつづき。

 

宮浦坑での労働と生活について

宮浦坑に着いた後、どこに連れて行かれましたか。

-山の上に建ててあった寮に入れられました。

(甲第63号証を示す)

これは、第二次世界大戦の後で三井鉱山に就職をした武松さんという日本人の方が、中国人の労働者を強制連行して強制労働させた歴史を記録しておく必要があるということで、残っていた資料から再現した宮浦坑の収容所の配置図なんですけれども、この図面を、一昨日、私からあなたは見せられたことを覚えてますか。

-見せていただきました。そして、こういう資料が人々の努力によって残っていたということに対して、私は非常に感動いたしました。

この図面を見ますと、収容舎と書いてるんですけれども、収容舎の建物の周りは塀で囲まれていて、監視所が各所に作られているようですが、あなたの記憶のとおりですか。

-はい、そうです。そのとおりです。

この宿舎から実際にあなたたちが強制労働された仕事場までの間は、どれくらい離れていましたか。

-大体2、3華里です。1キロから15キロくらいと思います。

仕事場に行くときも、仕事場から宿舎に帰るときも、隊列を組んで歩いて移動していたわけですね。

-はい、そうです。

そうすると、仕事場と宿舎を往復する以外の場所に外出するということはできなかったんですか。

-はい、できません。外出はできません。

あなたが実際に行った作業、仕事の内容は、どんなものでしたか。

-私の仕事は、非常にいろいろさせられました。まず、ドリルで穴を開ける、それからそこに火薬を仕込む、爆発させて出てきた石炭を今度はコンベヤーに載せるというような仕事をさせられました。

今の、ドリルで穴を開けて火薬を詰めて爆発させて砕いた石炭をコンベヤーに載せるという、こういう一つ一つの作業については、だれから教わりましたか。

-(サカヤマと呼ばれていた)日本人が指図しました。

サカヤマは、どういう方法であなた方の作業を監督してたんでしょうか。

-彼はどんなこともやりました。例えば、ちょっと油断すると、バカヤロ、チャンコロ、サンピンデゲイだとか、そういうののしり方をして我々を監督しました。

言葉でののしっただけですか。

-なにしろ、この言葉が出たときには手が動いていました。つるはしでも殴るし、ショベルでも殴るし、ときにはおのも振り回しました。

それは、あなたに対してだけでなくて、ほかに一緒に働かされてた中国人の労働者のみんなに対して同じようなことをしてたんでしょうか。

-はい、みんなそうです。

ところで、あなたがサカヤマから、こん棒ではなくておので切りつけられた、こういうことがありましたね。

-はい、そうです。

おのでたたかれた理由は分かりましたか。

-12時ころの交替時間間近だと思います。交替時間間近なときに、サカヤマという人はいらいらして、私が石炭をショベルで出してるときに、いきなり後ろから切りつけてきました。

いきなりおのでたたきつけてきて、その後あなたはどうされましたか。

-なにしろ、足をやられたもんですから、労工の仲間たちが私を背負ってくれて、血だらけの足を抱えながら宿舎まで帰りました。

宿舎に帰って、そのままでしたか。

-夜中の12時ころ宿舎に戻されましたけれども、その後だれも見る人がいなくて、翌朝の8時になって医者が出勤してきて、手術をすることになりました。

医者は、どんな治療と言いますかね、手術をしましたか。

-その2人の医者は、私の傷口を見て、傷口が黒く悪化してたようなところを見て、手術をすることになったと。しかし、2人とも全く医者の道から離れた行為で、私を対処しました。というのは、私の四肢、手足の全部を縛りつけて、それから麻酔やそういったたぐいのものは何も使わずに、手を下しました。ですから、私としては、全く、治療よりも死んだ方がましだと思うくらいにきつかったです。

どういうふうに医者があなたの足を治療したのか、ちょっと覚えてるように話してください。

-もともとおので切られた傷口というのは小さかったんです。傷口を見て、これじゃ小さいということで、もっと大きく切り開いたんです。切り開いた後、薬液をひたしたガーゼを、結局骨が見えるところまで詰め込んでいきました。

その後どうしましたか。

-その後は板切れで骨を固定しました。

板切れで骨を固定する前に、骨折していた骨を整復したんではありませんか。

-長いことほっぽらかされたもんだから、余計縮まっていたようなんですね。だから、縮まったところを2人の医者が二人掛かりで引っ張って、そのときの痛さと言ったら言葉になりません。骨が痛いのか肉が痛いのか、それも分からないくらいに痛くてたまりません。

それは、全部麻酔もないままにやられたわけですね。

-ありません。

大変な痛さだったんでしょう。

-なにしろ夜中の12時に負傷してから朝までの間というのは、痛さにたまらず、流す涙もないくらいでした。

動けるようになるまでに、どれくらいかかりましたか。

-3か月くらいして、ようやく何とか動けるようになりました。

その3か月は、どうされていたんですか。

-幸いにも、仲間たちが食事を持ってきてくれたり、トイレに行くときには支えてくれたりしてくれたおかげで、私は命を長らえることができました。

3か月間くらい宿舎に横にされていた後、少し動けるようになってから、あなたの仕事はどうなりましたか。

-手術後3か月以降は、宿舎の横にある炊事場の仕事の手伝いをやらされたり、自分が使うところのトイレの掃除をしたりしました。

もう採炭の仕事はしなかったんですね。

-はい、してません。

それはどうしてですか。

-なにしろ3か月過ぎたころには、まだひざの関節が全然動きませんでした。ですから、右足は引きずって歩かなければいけない状態だったので、坑内に下りるなんてできませんでした。

仕事場に歩いていくことすら難しかったわけですね。

-はい、そうです。歩けませんでした。

ところで、あなたがおので切りつけられてけがをされる前、つまり坑内で採炭作業をしていたときのことなんですけれども、そのころの食事のことについてちょっとお伺いしたいと思います。

-もうそれはお話になりません。

どんな内容でしたか。

-なにしろ一日分として出される量が、その当時の私には一回分にも足りないぐらいでした。

まんじゅうが一日分ということで、5個くらい出されていたようですね。

-はい、5個です。もう、ちっぽけなマントウが5個です。

空腹で我慢ができないときは、どうしていましたか。

-どうしても腹が減ってどうしようもないときには、外のごみ箱に捨ててあるみかんの皮とか野菜の切れ端をひそかに拾ってきて、夜寝るときに布団をかぶって布団の中で食べたりしていました。

どうして布団の中で食べるんですか。

-監督から、見付かったら、またひどい目に遭うからです。

あなたは夜寝ているときに、周りに出てきたねずみを捕まえて食べたこともあるんですか。

-3回食べました。

どういうふうにして食べましたか。

-ねずみを捕まえるのにも、私もコツを飲み込むようになりました。夜寝るときに布団をかけますよね、その布団をかけた後、両方こう手で・・・、まあ、待っていると、ねずみがちょろちょろとはってくるので、ちょうどはってきたときにぱっと布団で押さえ込んで捕まえた後、ふろ場の残り火に入れて焼いて食べました。とてもおいしかったです。

ねずみを食べるのも、日本人の監督の目が届かないところでひそかに食べたわけですね。

-そうです。もし見付かれば大変です。だから見付からないところでやらないといけないんです。

衣類の着替えの支給はありましたか。

-完全にありません。そこに着いてから1つのシャツを1枚とふんどし1本、それと小さなズボンを1つもらっただけです。あとは何にももらっていません。

坑内で採炭作業をしているときは、どういう衣類を着ていましたか。

-坑内に下るときは、もう裸です。ただ、ふんどし1本着けてるだけです。

宿舎の中の衛生状態はどうでしたか。

-非常に悪かったです。

例えば、具体的にどういうことがありましたか。

-なにしろ余りにも衛生状態が悪くて、布団だとか着物の縫い合わせのところにはずうっと一列に寄生虫がいて、もう夜中になるとそれが出てきてかむものだから、眠れませんでした。

先ほどあなた自身の証言の中でも出てきたんですけれども、あなたがバカヤロウだとか、そういう日本語であなたに言われた言葉で、今一番よく覚えている言葉はどんな言葉ですか。

-口を開くとバカヤロとチャンコロです。そして次にくるのがスラスラです。スラスラというのは、おまえたち殺すぞというような意味なんです。

その(宮浦坑にいた)19か月間の間、あなた自身はどんな思いで毎日の生活を送っていたんでしょうか。

-どんな思いと言いますか、とても言葉で言い表すことはできません。家に帰ろうにも帰られない、ここにいても侮辱を受けるばかりだということで、非常に苦い思いをさせられました。

帰国をするに際して、賃金の支払はありましたか。

-一銭ももらっていません。