北海道の中国人慰霊碑(2)

「オホーツク講座100講記念」を読んで、置戸町における中国人強制連行についてある程度わかったつもりになっていましたが、留辺蘂町の町史研究者にいただいた資料(小池喜孝氏のガリ版刷り)にあった中里墓地近くに住む我妻清という人の証言に驚愕しました。

21年春になると、浅く掘って埋めた華人の頭が出たり足が出たりして、始めて通る人がいやがってね、わしも3人かそこらの頭がころがってるのを、道端に埋め直したこともあった」

「昭和24年(このとき日中友好協会は3柱送還)には、役場の人も来ていたから黙っていたが、あの掘り方じゃ出ないと思った。火葬場の佐々木源太郎さん(4年前死亡)がくわしいはずだった。燃料不足で、火葬しないこともあったらしい」

「昭和46年に、墓地横に側溝を掘ったら、1メートル以上の深い地下から、7体出てきた。働いていた人は、『いやなところを掘らされたな』といっていた。工事は木村組が請け負っていた。遺品の中には、中国人の革バンドの留金などがあり、華人だった。遺骨は山本武男さんたちが供養していた」