愛知における強制連行問題の取り組み(15)
孔繁河さんの証言のつづき
(南)監督の名前は覚えていますか。
(孔)まったく知らない。その当時も知らなかった。
南)北海道の現場で1 0人死ぬんですけど、石門隊も含めてですが、亡くなった人をだれか覚えていますか。
(孔)誰が死んだか教えてくれない。
(南)ここに名前があります。(殉難者名簿を見せる) [一人ずつ読み上げていく。]
(孔)郭文和は知っている。
(南)孔さんの班は何人でしたか。
(孔)中隊と小隊、班があって、班は十数人。
(南)その中で亡くなった人は?
(孔)ありません。
(南)病気になった人は?
(孔)あんまり病気になったということも聞かない。
(南)水銀のため池の工事が終わったあとにこういう記念碑がつくられたが、覚えていますか。
(孔)まだ堤防ができていないときに冬が来ましたので、覚えていません。
(南)これは44年のII月につくられた。44年のII月の終わりに北海道から大府に移動させられています。ちょうど終わったころですね。
(孔)その記憶はない。
(南)北海道ではどんな食事でしたか。
(孔)作業場に連行された最初は、中国から持って行ったトウモロコシの粉でパンとかを食べた。それがなくなると、ドングリの粉などでつくったパンを食べたのですが、なかなか消化ができなくて下痢とかよくした。
(南)労働時間はどれくらいでしたか。休みはありましたか。
(孔)1日何時間ということはまったくなくて、朝、まだ夜明けになっていないころに工事現場に行かされ、昼ころ、工事現場で食べさせられて、また休みをもらってそのまま働きました。夜暗くなって見えなくなると、寄宿舎に帰れました。
(南)休みの日はありましたか。
(孔)休みはまったくありませんでした。