愛知における強制連行問題のとりくみ(11)

名古屋にいる時は警察も監督もいませんでした。二人の責任者がいただけです。私たちは一日中土を掘り、土を担いで運ぶだけで、なにも技術的な労働はありませんでした。北海道にいた時は各班30人に一人の監督と警察がいました。

日本に来る前に新しい綿の黒色の服を一式支給されました。日本に着いてからは綿の服を支給されることはありませんでした。北海道にいた時には藁と化繊でできた緑色の服が支給されました。だから私たちはずっと黒色の綿の服を着ていたのです。履いていた靴は緑色の地下足袋でした。

5時に起きました。6時に集合の号令がかかりました。歯を磨くことはできず、適当に顔を拭いていました。みなで、輪になって朝食を食べました。食べるものはたいてい腕豆の粉で作ったマントウか、あるいは粥でした。灰色がかった色で、豆臭さがありました。食べた後、時間が経つと便秘になりました。昼はたいていマントウで、少し水もありました。(水ではなく)汁というか、よく分かりませんが、なんかちょっと汁物みたいではありました。昼のマントウはやや多かったです。私たちは青島から船で日本に来て、列車に乗って北海道へ行きました。その汽車の中でおにぎりを食べましたが、それ以降、二度と米を食べることはありませんでした。

(名古屋の飛行場で5人の方が亡くなったことについて)記憶はありません。帰る時に、船に乗った時と降りた時ですが、遺骨が入った箱を抱えていた人は見かけたような気がします。天津に着いた後、私たちは解散しまして、結局のところ、その遺骨の箱がどう処理されたのかは誰にもわかりません。