愛知における強制連行問題の取り組み(10)

5人の証言 唐燦さん】(要旨)

〔名古屋の飛行場で〕

住居はテントで、そのテントには30人いました。真ん中に鉄の柱が1本あり、布を上から引っ張って下で釘を打ち付けていました。下の方は1メートルの高さの所から垂直に垂れ下がっていました。ーか所に開けることができる部分がありまして、窓と同じようなものでした。ベッドはなくて、みな藁を敷いた土の上で寝ていました。

北海道の留辺薬に3カ月余りいて、置戸へ行きました。確か王精衛(王兆銘)が死んだ頃、私は置戸村にいたのです。それから2カ月もしないうちに名古屋へ行きました。たぶん12月くらいだったと思いますが、名古屋へ連れていかれました。でも、名古屋市内へ行ったことはありません。飛行場がありまして、その地区の周囲はすべて蜜柑の木でした。

「上野」という地名は聞いたことがあります。そこの丘を削った後に飛行場を拡大するということのようでした。当時、私たちはそこで働いていまして、日本の女性や子どもたちも労働していました。私たちと一緒に働いていたのです。多くの女性たちがいました。男性はいませんでしたからね。朝鮮人は北海道には多かったのですが、そこでは少なかったです。その土地には比較的長く滞在しており、何カ月もいたと思いますたぶん6月か7月だったと思い'ますが、その頃の空襲はそうとう激しいものでした。夜も昼もずっと空襲でした。