愛知における強制連行問題の取り組み(7)

札幌高裁判決(2007628日)は、この強制連行・強制労働の一連の過程を「違法であることは疑いないものと言わなければならない」と認定しました。(最高裁は原告の訴えを棄却。裁判としては原告敗訴ですが、札幌高裁が原告の訴えた事実を認定しているため、これをもって裁判所が被害事実を認めたということになります)

北海道訴訟で原告となったもう一人の王洪書さんの「陳述録取書」も紹介しましょう。山東省出身者の証言は、ほかに南守夫さんがインタビューした孔繁河さんの証言しかありません。

 

〔王洪書さんの「陳述録取書」から〕

私たちは、伊屯武華に着くとすぐに仕事をさせられました。仕事は除雪と堰を造ることでした。日本人の監督が監視しており、彼らはいつも私たちを動作が遅いとかノルマをこなさなかったといったことで、罵ったり殴ったり土の塊を投げつけたりしていました。私が知る限りでは、監督の暴行のため死んだ者は12人いました。また、過労や病気で死んだ人もいました。

宿舎は木造で、一応暖炉はありましたが、それでも寒く、くっつきあわないと寒くて眠れない状態でした。

食事はどんぐりの粉や大麦粉で作った麺、マントウ、ジャガイモなどでしたが、量が少なく空腹に耐えねばなりませんでした。

逃げた人が三人いましたが、日本人に捕まりました。その後その三人の姿は見かけませんでした。

夏には亜麻の服がー着追加で支給されました。

11月になると、名古屋に連れていかれ、飛行場建設工事をさせられました。労働時間は一日10時間以上で、夜勤もありました。休みは月に2日でしたテントで寝泊りしました。そこでは朝鮮人が泥すくいの仕事をしていました。

19456月には北海道の平岸へ連れていかれました。ここでは道路工事をしました。やはり一日10時間以上の労働でした。

19458月、私は日本が降伏したと聞きました。飛行機が来て、食料や衣類を投下しました。働かなくてもよくなり、食事、衣服もよくなりました。

194510月、日本に連行されたときと同じ第二大信丸で中国へ帰りました。日本人は帰国にあたり、靴、服、毛布、コートをくれましたが、お金はくれませんでした。