米機による平岸中国人寮への救援物資投下(16)

日本の警察は、中国人らの動きや米軍機による物資投下をどの程度、掌握していたのだろうか。

「俘虜収容所の標識に関する件」という俘虜管理部長が内地各俘虜収容所長、内地各軍管区、台湾軍参謀長にたいして発した指示文書は、次のように述べている。「敵はこの標識により通信筒または食糧等を投下しあるいは落下傘にて降下する等のことあるべきをもってかかる場合は適宜に処置しこれを妨害または抵抗するがごときことなく・・・」と対応に留意するように述べている。

このような指示もしくは情報が末端の警察にまで届いていたかどうかは定かではないが、平岸では、地崎組は警察と連絡をとりながら中国人の動向を探り、事前に米機による物資投下があることをつかんでいた。

地崎組報告書は、次のように書いている。

「昭和20年9月6日華人労務者は暴動後赤平下芦別の白人俘虜収容所へ連絡を以って華人宿舎へ来訪を求めたるものの如く、9日赤平白人俘虜7人来訪あり、直接華人宿舎に於いて大隊長以下総員と会合し数時間の後帰所し、翌日は下芦別俘虜6人訪れ何事か華人申し出と打ち合わせの模様に見られたり。組側として放任しおくは再度の紛争を憂慮し組側通訳を以って秘かに様子を探知さしたるに米軍進駐軍と連絡し食糧医療等飛行機を以って投下し与えたる旨を約し数時間の後帰所せり」

この情報をもとに、滝川警察署次席村上警部や警備軍隊中田少尉らが平岸に来て警戒にあたったのである。

12日午前の投下の際、「偶々其の1機より程遠き個所に落下せるに群衆(中国人)の取り締まり警戒中にありたる滝川警察署小川和好巡査は飛散せるに依り之を引き渡すべく物品3個を蒐集せり」という行動をとったことから、中国人らに攻撃されることになった。

「投下物収納せんと馳集るたる華人たちは小川巡査の蒐集せる該品を窃取するものと誤認し荷物運搬のため用意し来たりたる8尺位の棒を振り上げつつ小川巡査に迫りたり」。そして、逃げる小川巡査を追跡した。村上警部や中田少尉らは中国人たちを制止しようとしたが、乱闘になったというのが事件の経過である。