米機による平岸中国人寮への救援物資投下(13)

強制連行された父の足跡を追って北海道にきた中国湖北省黄石市に住む唐元鶴さん。彼女が父の書いた「中国戦俘隊在日本」の中の一節、米軍機による中国人寮への救援物資投下事件について平岸のお年寄りらに伝えた。水で字を書いて、そのうえに小麦粉をまいて、飛行機から見えるようにしたのか。考えたもんだな」などの感想が聞かれた。

他の捕虜収容所では、PWの文字を黒地に黄色の塗料で書いている。

陸軍の俘虜管理部長は、各俘虜収容所長にたいし「困難なるべきも黄色塗料は地方官憲に依頼する等あらゆる手段を講じ」ることと指示している。平岸の中国人寮も実質的には捕虜収容所なのだが、日本政府はそういう扱いをしなかったのだろう。ペンキを入手できない平岸の中国人らは、便法として小麦粉と水で米軍機に所在を伝えたのだった

「9月15日ごろ、4日間の休暇をもらって平岸に戻ってきた。中国人の寮は2棟あり、前の棟の屋根に『中華民国万歳』と書いてあったのを見た」というSさんの証言は、これも記憶違いではなく、小麦粉で屋根に書いた「POW」という文字も1日、2日で消えただろうから、書きなおした文字を見たということになろう。その場合、二つのことが考えられる。一つは、「POW」の文字が消えたために、もう一度物資投下されることを期待して書いたケース。ただし、なぜ漢字で書いたのか疑問が残る。もう一つは、中国人が戦勝国の人間として喜びを表現したケースである。

中華民国万歳と書いた」ことを「平岸の中国人は八路軍関係が割合に多く…と堂々の隊伍をくんで憲兵を包囲し、武装解除し、その日本刀などをうばって自分たちのものにし、本当に自分たちの力で自分たちを解放した」(北海道慰霊実行委員会の「調査報告」1953年)という流れのなかで見ることも十分可能だろう。