米機による平岸中国人寮への救援物資投下(11)

 2012年夏、平岸に強制連行された中国湖北省黄石市の唐燦さんの娘の唐元鶴さんが来日し、北海道を訪ねた。その折、赤平市では平岸の当時を知る長老たちが集まってくださった。そして、平岸油化工場建設で働いていた様子や、戦後の米軍による補給物資投下などについて話された。Iさんもその一人だが、他の人の証言を紹介しよう。

 

Yさん 「落下傘は黄色とか青だった。中国人がパラシュートで服をつくったことを覚えている。パラシュートは2回落した」「ソバ畑のところに宿舎が見えた。馬の草を刈ってもらった。ふかしまんじゅうをごちそうになった。雑誌を持ってこいと言われたことがあった」

Tさん 「中国人は近所のおばあさんの所に落下傘のきれを持ってきた。中国語 だからなかなか通じなかったと思うが、なんとかつくらせた」

Aさん(85歳) 「寄宿舎を取り壊し、平岸病院のそばの日本人寮に移って行ったことがあった。馬で行く途中、かなりの人数の中国人たちが隊列で来たのでびっくりして馬をつないで、山田と言う米屋さんに入った。中国人はその馬を連れて行って、荷物を病院の横の宿舎に運んだ。中国人がいちばん欲しがったのは、腕時計と万年筆だった。毛布と交換してくれという話はずいぶんあった」

Sさん 「9月15日ごろ、4日間の休暇をもらって平岸に戻ってきた。中国人の寮は2棟あり、前の棟の屋根に『中華民国万歳』と書いてあったのを見た」「中国の将校から、今晩は外出するなと言われたことがあった。あとで、その夜の汽車で室蘭まで行き、帰国したことを知った」

 

Yさんの言っている「中国人がパラシュートで服をつくった」と、Tさんが言った 「中国人は近所のおばあさんの所に落下傘のきれを持ってきた。中国語 だからなかなか通じなかったと思うが、なんとかつくらせた」は同じ件である。B29部隊は、救援物資をパラシュートで投下したが、そのパラシュートも中国人たちは活用することを考えたようだ。日本人の家に行って、その家の婦人に缶詰か何かを差し出して服を作ってくれと頼んだのだと言う。ことばが通じないので中国人たちは何回も通い、ジェスチャーでなんとか伝えることに成功したのだという。Tさんは、近所のおばあさんが服を縫っているところを見たと話した。

このほか、平岸の駅で荷物の積み下ろしをしているのも見たという証言もあった。愛知県から運ばれてきたレンガだったという。