中国人の実態調査で発疹チフスに感染、死亡した巡査

以前、「あかびらふるさと文庫」に華人寮で発疹チフスに感染して死亡した警察官のことにふれた赤平市宝性寺の黒川カヲリさんの文章を紹介したことがあった。戦時中、炭破労働者の間にずいぶんと『発疹チフス』という伝染病が流行しまして、特に環境の悪い寮に住んでいた華人(注・中国人)の労働者が犠牲になったようです」という証言である。

 『北海道警察史』のなかにその件が記載されていた。

 

労務者実態調査中発疹チフスに感染して

         滝川警察署 警部補 河上留吉

河上巡査は、明治二十五年一月本道寿都寿都村で生まれ、大正九年七月北海道庁巡査となり、寿都警察署から昭和十二年五月滝川警察署に転じ、同署歌志内・上赤平の各巡査駐在所詰を経て十九年一月から赤平巡査駐在所詰として勤務していた。

たまたま二十年二月中旬上司の命により管内赤平町川口組に入った華人労務者の実態調査を行なったが、その際労務者中に発疹チフスにかかっていた者がいたため、不幸にも河上巡査はこれに感染し、調査を終了して帰所したあと発病した。その後赤平町立病院の隔離病棟に収容されて療養に尽したが、その効なく三月六日ついに殉職するに至ったのである。享年五二歳であった。

なお、このころは太平洋戦争末期で、本土決戦というさし迫った状況におかれ、国民の意識、特に官吏の士気を高揚するという面から各種の優遇措置がとられたが、殉職についても従来より特別昇任の取扱いを幅広くし、二階級以上特進させることとなっていたので、警察部では河上巡査の生前の功績も認め、即日二階級特別昇進させ警部補に任命してその霊を慰めた。(『北海道警察史』)

 

滝川や赤平などの地域ではよく知られた事件だったであろう。それにしてもこの巡査が華人寮でおこなった実態調査とはどのようなものであったのだろうか。そして、華人寮にたいしてはどのような防除措置がとられたのだろうか。

赤平住友川口組出張所では42名が亡くなっている。うち発疹チフスで亡くなったのは5人。安進義 20年3月5日  郭光成 20年3月13日  王富先 20年4月9日

東栄 20年4月11日  劉光耀 20年4月11

 発疹チフスの流行と死者が続いたことは明らかである。

 

国立感染症研究所HPを見ると「シラミによって媒介されるリケッチア症で、戦争、貧困、飢餓など社会的悪条件下で流行することが多」いと説明されている。