名古屋―平岸連送(4)

25日6時40分地崎組労務次長あて ○○ユソウノカンケイニテアオモリジョウセンヨリダイヤヘンコウス 一タイ二七ヒ一ジ三〇フンアオモリハツ六ジ三〇フンハコダテハツ一九ジ五〇フンタキカワチャク二〇ジ四八フンヒラギシツク ヤショクノテハイタノム アサベンオサマンベヒルオタルヨルタキカワ サイド キチヨリカクニンタノム 二タイ三タイトモニオナジ イコツ五カクタイジサンシサッポロニ(以下3枚目と4枚目が重なり判読できず)

 (○○輸送の関係にて青森乗船よりダイヤ変更す。一隊27日1時30分青森発 6時30分函館発 1950分滝川着 2048分平岸着く。夜食頼む。朝弁当長万部昼小樽夜滝川。再度、貴地より確認頼む。二隊三隊とも同じ。遺骨5各隊持参し札幌に…)

この電報は、乗船予定は26日夜6時から27日午後130分に変更になったことを伝えている。この電報で「遺骨5」と書いていることは注目すべきだろう。大府で亡くなったのは5名であるから、この5体の遺骨を平岸への移動にさいし、中国隊が持っていったことが確認できる。「各隊持参」であり、死亡者の所属班でおそらく同郷の者が抱えて行ったのだろう。

石家荘収容所から連行された石門隊は、大府から平岸へ向かう時は288名、済南収容所から連行された済南隊は187名であり、計475名である。この両隊を3つに分けて一隊、二隊、三隊に分割・編成したが、荒金係長が打った他の電報によれば「コノシンセイハ五一〇メイナリ」(この申請は510名なり)とあることから、3つの隊に35名の日本人が同行したことが分かる。