地崎組東川事業所日誌 逃亡事件の発生

逃亡事件の発生

東川事業場報告書によれば逃亡事件は2件起きている。その一つが昭和20年1月7日の3名逃亡である。

「滝川町に於いて発見現場に帰舎せしめたり。逃走の原因は三名共に怠惰の性質にて稼働態度甚だしき不良なる為他の影響を恐れ小隊長は常に之を戒め時々制裁を加えたる所小隊長に憎まれては将来浮かぶ瀬なく此の際逃走し他の事業場に於いて稼働すべく協議脱舎せるもの」としている。逃走中、3人は農家に侵入し、衣類や履物、金品を盗み、1月11日に警官に取り押さえられたという。

この事件は、作業日誌にどのように書かれているだろうか

1月7日の作業日誌は、「本朝不明時逃走者三名。三一三、三二三、三三五。事故有りたる為、日系指導員速やかに配置に着く。事故者有りたる為、本日作業休業す」と記し、翌8日の日誌は、朝、国旗掲揚、宮城遙拝などを行ったあと、作業は行わず、宿舎で衣服修理や掃除などをおこなわせ、指導員全員は前日の逃走事件の対策に出動したとしている。9日からは通常どおりの作業が始められた。

11日に道庁労政課宮永警部が事業場を見に来ている。日誌には逃亡者が捕まったことが書かれていない。15日の日誌には「午後二時二十分、旭川警察署外事主任外二名警察官、逃走者三名連行。華人舎屋の調査並びに訓話あり、午後三時三十分帰舎せり」と記されている。捕まった3名は、このとき事業場に引き渡されたのであろうか。日誌の「記事」には、そういう記述はない。点呼表の第2中隊第5小隊を見ると、1月12日の日誌では「逃走3」であるが、13日は「旭川3」となり、2月5日の日誌まで「旭川3」と記録された。第5班の隊員数は、逃亡後から5月7日まで変化はない(作業場日誌は、5月7日まで)ことから、身柄を警察に押さえられた3人は、事業所には戻されず、少なくとも3カ月は警察署に留置されたようである。「華人労務者移入・配置及び送還表」では、東川事業場の受け入れ総数304人と、事業場での死亡者数(54人)と集団送還人員(250人)の合計は一致するので、どこかの時点で戻されたのであろう。

『東川における中国人強制連行』で、佐藤幸子さんは次のように証言する。

「翌日昼頃に東旭川で六人共に疲れて草の中で寝ているところを村人の密告で捕われてしまったというのである。宿舎に連れてこられた時はもう、さんざん『ヤキ』が入っていた様子で、ところどころ紫色にはれあがり、よろよろしてこずき回されていた。彼らは手を合わせて誰かれの区別なく頭を下げて宿舎の庭に座らされた。…(中略)…その時、私が見たものは……。警官が彼らの首をしめて仮死させる。するとカツを入れて蘇生させるのだった。六人共青い鼻汁を出して死んだようになっていた」

これが、もう一つの逃亡事件であろうか。