地崎組東川事業所日誌の記載事項について(3)

 事業所日誌の点呼表には、「休養」者数と「入室」者数が書かれている。休養者は病気で仕事に出られない者のうち所属班のベッドで寝ている者、入室者は別室に移された者をいうのであろう。入室者は休養者に比べてより重症であろうが、休養者が入室することなく死亡したケースもありそうだ。11月15日には2名が亡くなっているが、「休養」者だったのではないだろうか。

1115日の日誌には「二四〇番一二〇番病気療養中の処本日死亡せり」と書かれている。14日の第2小隊は「出動」37名、「雑役」1名、休養10名、入室6名で、15日は出動37名、雑役1名、休養9名、入室6名、死亡1名となっている。休養者が死亡したか、休養者が入室し、入室者が死亡したかのどちらかである。14日の第4小隊は出動36名、雑役1名、休養11名、入室6名だが、15日は出動36名、雑役1名、休養10名、入室6名、死亡1名となっている。やはり休養者が死亡したか、休養者が入室し、入室者が死亡したかということになる。これらから休養者の中から死亡する者がいたことを否定することはできない。

地崎組伊屯武華の被害者・楊東元さんは、「私はあるとき、病気が治りそうもないので離れているところに捨てられました。栄修徳が、仕事が終って戻ると、私がいないことに気づき、探しに来て、連れ戻してくれました」と語った。

「捨てられた所」はどういうところだったのか。楊さんは、「ぼろぼろの倉庫のようなところでした。人数は覚えていないが、病人が何人かいました」という。病気で仕事を休んだ楊東元さんは、寮に残っていた者によって病棟に移されたのであろう。

中国人らは、病棟に入れられたら最後、死を待つだけで生きて戻れないと思っていたのだろう。楊さんは、仕事が終って戻ってきた仲間のことを「彼は命の恩人だ」と話していた。