『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』が出版(5)

大府での調査もボリュームアップしています。なかでも目を引くのは、114ページの「その後の調査で分かったこと」です。中国人が寝泊まりした「みかん畑の大きなテント」の位置をつきとめ、その近くの土地所有者から「ここで中国人がテントで生活していることは覚えており間違いない」と証言えたこと、これは中国で生存者を探して聞き取りをし、さらに東海市での慰霊祭に招き、飛行場跡地に案内したことなどを通して、地元で関心が高まったことがあったと思われます。

1944127日の東南海地震で、三菱重工・名古屋航空機製作所が甚大な被害をこうむり、さらに米軍の空襲で大江工場が壊滅的になり、三菱重工は工場を疎開させましたが、その疎開先が、大府駅、共和駅周辺で、大府駅周辺には中枢管理部門があり、12カ所が確認されていると、筆者・西氏は指摘しています。

大府飛行場建設では、中国人強制連行の「前史」として朝鮮人労働者の使役も検討されなければならないようです。「前史」という表現はあまり適切ではなく、「本史」というべきで、「中国人強制連行が「続史」なのかもしれません。

西氏は、多数の朝鮮人が工事に参加した事実を示すものとして、名古屋で発行されていた在日朝鮮人の新聞「東亜新聞」1942926日付の「殉難者慰霊祭」が行われ、3000名が参列したという記事をあげています。また、この時期、半田市の中島飛行場の建設も始まり、日本各地から集められた多くの朝鮮人が土木工事に従事していたこと、大府関係では、「姫島、太田川(以上、東海市)、横根川(大府市)に朝鮮人の部落があったとされている」こともあげ、これからの研究課題であることをあきらかにしています。