井華赤平の馬書児さんの証言(3)

馬書児さんの証言を続けます。

 

赤平はとても寒く、路上に降り積もった雪はとても深い。人の背丈より高く、ちょっと油断すると雪のくぼみに落ちる。私達が履いている靴はみなぼろぼろで、縄で縛って履いた。ある時トロッコを押していた。とても寒いため、車には1尺のツララができていた。私はちょっと油断して足を怪我した。足が腫れ、傷口がなかなか塞がらなかった。歩くこともできず、日本人は薬を少しくれただけで、治療もしなかった。少し良くなると、日本人はまた働かせた。日本人は毎日私達を現場に行かせ、苦役労働を強制した。私たちが生きるか死ぬかはどうでもよく、死んだ人は多い。人が死ぬと、日本人は火葬した。張更伍(注)という人は、なぐられ、虐待され、また飢えと寒さに悩まされて死んだ。ここで一緒に仕事をしたのは、ほかに米国の捕虜と朝鮮の労働者もいた。彼らも同じように日本人に酷使された。

19458月、日本は投降した。米国の労働者は私達より早く知っていて、彼らは先に仕事を止めた。私達はそれから東アジア戦争が終わり、日本は国が破れたことを知り、私達も仕事を止めた。日本人も私達を取り締まらなくなり、自由になった。帰国前、日本人は私達に1着のコートと帽子、ひと組の革靴を支給した。11月頃、私達は九州から米国の軍艦に乗って帰国した。

(注)更伍zhāng gèng wǔ。名簿では「189庚五zhāng gēng wǔ25 新楽県三舗児村 45年2月21日死亡」となっている