井華赤平の馬書児さんの証言(2)

井華(住友)赤平事業所で強制労働をさせられた中国人・馬書児さんは、働いていた様子を次のように語っています。

 

私たちの寮は木造で、屋根は石綿のスレートだった。大部屋で、1軒に1つの小隊が住んだ。小隊長は何文波。食事は13度で、豆の粉でつくった薄く引き延ばしたものが1回に1個出された。スープも少し飲めた。寮にはストーブが3台あったが、まったく火が起こされない。日本人が石炭をくれなかったからだ。冬はとても寒く、ほかに暖を取る設備はなかった。毎朝4時に起きて食事をし、日が暮れてからようやく帰って来て晩ご飯を食べて寝た。寮と作業現場は3キロの距離があった。私たちはその日その日、仕事をするだけで精いっぱいで、ほかに何も考えられなかった。

私は採鉱したことがあり、坑外ではいろいろな仕事をした。赤平炭鉱第1坑で働いたとき、トロッコを引っ張り上げるワイヤが切れ、トロッコが滑落するのを見た。人々は一目散に走って逃げだしたが、私一人取り残された。私も脱出しようと大きい柱の辺りまで走ってきた時、トロッコが落ちてきた。私は柱に寄りかかってかろうじて躱した。このときの事故で死傷者はいなかった。1日片付けをしたが、片付けきらないうちにまた仕事が始まった。私は1坑で石炭を掘るとき、トロッコを使って石炭を運んだ。1日約4台に石炭を積んだ。1台で2千斤の重さがあった。穴をあけて発破をかけるときは、3人が1メートル半の長い空気ドリルを担いで穴をあけて、それから発破をかけて採鉱した。いつも工事監督が見張っていて、少しでもぼんやりしているとなぐられた。1坑で半年余り働いたあと、2坑に変わった。